笑止「方違い」の風習と現代の不吉な方角

一昨日は菊川・掛川方面におりましたが晴れているのにもかかわらず白いものがちらほら。

ここへ来て本当に寒い日が続いています。

3.11は「次は自分たちの番」であることを肝に命じて、その時間に鳴り響いたサイレンとともにおつとめ開始。

予報では「本日より暖かくなる」とのことで、やっと息がつけそうです。何しろ家の中が寒すぎます。

 

 さて、「占い遊び」の続きです。

この占い、加持祈祷の類は陰陽道の流れで平安時代以降に大いに宮廷貴族から流行したものです。

 要は「余裕のある人」からハマリだしたものであって庶民レベルでは日々の生活一辺倒ですので他の事を考える余地などは無かったものです。

お金持ちがこぞって走るものであり、いわば今の地位を永続的に続けたいという願望がそうさせたと思います。

 

 特にバカバカしい可笑しさは「方違い」(かたたがい)~「方忌み」(かたいみ)という風習です。

平安時代に京都周辺の寺社が結果的に繁盛して儲かってしまうシステムだったわけで、当時の寺社としてはこの風習を受け入れて、むしろ肯定推奨すれば黙っていても寺は大きくなったといいます。

 以前、漫才で「方角が悪い」というフレーズでそのアホらしさから笑いを誘ったギャグがありましたがまさにそのことを言います。

おそらく現代もそういう風習に沿った生活をしている方も居ないことは無いと思われますが、明治期辺りまで真顔で「方違い」の風習が残っていたかと思います。

 

 鬼門と同様、色々な場所に不吉なことをする神が居て、それらを忌避するというものがその趣旨ですが、ということは当時何か悪いことが起こった場合は、その「神に障った」と心得たもので、身に降りかかる殆どの敗戦、失策、事故、病気等不都合全般の「原因・理由」をそこに求めたということです。ということでその解法を教示してくれる占い師やそれらにかかわる寺社が「繁盛」したのです。

 

 「占い」へ向かうという心理はその人の余裕やゆとりさえも感じてしまいます。切実に何かに迫られるのでしたら各種カウンセリング、法律相談を受ける事をお奨めします。

尚、基本的にそのような相談事に金員が必要な場所は敬遠した方がいいですね。

ちなみに1年に1件程度「切実な色々」を打ち明けられる方が見え、帰り際に相談料について「いくらですか?」と尋ねられることがあります。

 坊さんの務めは「聞くこと」ですのでまったくお構いはいらないというのがその返答となりますね。坊さんにも色々考えがありますので一概では無いと思いますが、私はそうしています。

 

 元々、方角は「自宅」を中心に考えますので、ヤバそうな神が出てくる季節には、その方向に行く予定がある場合、前もってどこかの寺や神社に一旦籠ってそちらを「自宅」ということにして、方角を変えたり、最初からその方向が禁忌でしたら一旦違う方向に出て遠回りするという方法を取りました。中には長期間寺などに滞在することになる場合もあったそうです。

 

 やはり合理性を重んじていた家康辺りも意外に気にしていたようですね。

浜松から駿府に向かう家康が東海道を進み秀忠が海岸沿いを時間を変えて進む、あるいは秀忠の遅参大失態の関ヶ原戦なども東海道と中山道に分けたというのもその類でしょうね。

 まぁ重臣の誰かが言い出すのでしょうが、リスクを分散させるという点では「方違い」もむしろ合理性はあります。

 

 現代ではバカバカしくてその手の事に関わるワケがないと断言されている方もいらっしゃるでしょう。

しかし案外知らぬうちに付き合わされているかも知れませんよ。

 葬儀屋さんのシステム、出棺して火葬場への道と火葬場から葬儀場への道、行き帰りを必ず変えますね。

これも暗黙のうち、そのようにやっている様ですが、もし私に窺いをたてることがあったら「無用です。同じ道でOK!!」の一言となりましょう。

その件「死者が迷ってついてくる」などという人もいますが、「ついて来てくれた方がむしろ楽しいでしょ」と言ったことがありました。

真宗門徒は吉日良縁方角に拘らず加持祈祷まじない土俗風習を実践しませんので。

 面倒くさいので最近は、「ご勝手に」という感じ、葬儀屋さんにまかせっきりにしています。

 

ただ、唯一この地で不吉な方角を敢えて示せば「浜岡原発」の方向であることは違いないところです。

「裏鬼門」の「坤(コン)」~ひつじさる~南西から「艮(ゴン)」~うしとら~北東とまさに鬼門となっています。

 

画像はネコ3匹固まって暖を取るの図です。

家を失って寒気の中、我々も寄り添って暖を取る姿、そして家族同様のあの者たちの「その時」の行く末も考えさせられる一日でした。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (水曜日, 12 3月 2014 08:41)

    いつかは来る、震災。
    どうなんでしょうね。話題にはことかきません。
    すべて それなりに。
    私も教えの通り、「加持祈祷まじない」を信じません。
    でも 否定もしません。
    信じたければ信じればいい。自分自身が信じたくなるときは
    すがります。(それでどうにかなるわけもありませんが)
     

  • #2

    今井一光 (水曜日, 12 3月 2014 20:47)

    ありがとうございます。
    来る来る脅され続け、またそのことを理由にして、何にも出来ないでいる自分がおりますが、やはりどうしていいかわかりません。
    できれば勝手ながら東北と同じような当地の姿は目にしたく無いというのが本音で、「来る」前に「おさらば」できればこれほどの幸せは無いでしょうね。「どうこう考えてもらちが明かない」という理由でいつもさの話題から逃げても居ますが、とにもかくにも「一向専念無量寿仏」です。
    淡々と「南無阿弥陀仏」のスタンスで。