当たるも八卦 当たらぬも八卦 金堂城

占い好きの方の楽しみを否定する気はありません。

この言葉は、占いという他愛もないお遊び如きことにネガティブな判定が出て落ち込む人を「まぁまぁ」と慰める言葉ですね。

「当たるか当たらないか」「そもそもどちらか」だから「気にするな」です。

 

 その当たるか当たらないかはコインの裏表の如く、「確率50:50である」ということですので「占い」というお遊びは「無意味」以外何ものも無いということは大概の現代人は知っています。

ただし伝統的に日本人はそういうものが好きな民族なのか、未だ真顔で地区の「よくあたる」と言われるどなたかその道に詳しい?方に出向いて個人的な悩みの指針を訪ねにいくという話をよく聞きます。

 

 地元の噂で話半分ではありますが、あまりに流行って過去に税務署の査察が入ったというその手のことを生業としている人があったと聞きました。

既にその方は亡くなったといいますが、その話を聞いて「役所の訪問や自分の死についてしっかり占えたのかのう・・・」と呟いた方がいらしたことを思い出しました。「うまいこと言うもんだ」と感心したものです。

蛇足ではありますが、御釈迦様から当流開祖親鸞さん蓮如さんまでそんなことは「知り得ぬこと」で知ろうとすること自体無意味であると断じています。

四苦八苦の悶絶からいかがして逃れるかの問いには「答えられない」というのが本当のところ。

 

 さて、くじ将軍足利義教について何度かブログに触れています。

 武田信玄の城攻めや戦に際して占いを自ら取り入れてその可否を判断したこともかつてブログにて触れましたが、封建社会における為政者、支配者の呪い、占いによる施政は「当たり前」のことでした。

 

  特に戦国時代の戦に関して殆どの武将が占いに頼って行動したということは紛れもない事実で、大将が「そのスジの知者に聞いて、動く」という感覚が「軍師」の発生に繋がったと言われています。よって当初、軍師たる者の素性は「呪術師」的職業だったかも知れません。

 

 そこに中国の兵法書「孫子」を習得して、兵の動きの合理性を追求した発展型の軍師が登場したというところでしょう。

要は「当たるも八卦 当たらぬも八卦」で「我が身や家の命運」を掛けられるのではたまったものではないですからね。「圧切長谷部」は信長が腹を立てた茶坊主を一刀両断にしたと伝わりますが、その者はひょっとしてちょっとした軍師気分で信長に何か注進して激昂されたのでしょうね。

 

 「八卦」とは、私はほとんど知らない世界ですが少々。イメージそのものとしては「おみくじの棒きれ」で、それらの形を見て方位、運勢や吉凶を占うという感じですが、やはり歴史的に良くでてくるのが「艮(ゴン)」~うしとら~という字です。

 

 「艮」は方角のことで北東方向、いわゆる「鬼門」で、昔の人はみんなこの方角から南西に抜ける「裏鬼門」の「坤(コン)」~ひつじさる~のラインをやたらと気にしました。所謂「不吉~ふきつ~」というやつ・・・

 真宗ではそれらの事を「迷信」と呼んで一笑に付すところではありますが、歴史上、建造物等の配置を見るに無視できないものがあります。

 

 鬼門については駿河館鬼門を守護する寿桂尼の竜雲寺さんについて先日記しましたが、近江五個荘の金堂町( )にもその名を記す遺構があります。その名は「大城神社」(場所はここ)の名称で、まさに「城」を意識している名の様。またこの通りを金堂馬場と呼ぶのもその名残。

 

 こちらは佐々木六角氏の居城観音寺城(繖山~きぬがさやま~)の「艮」、北東方向を守護することを目的に建てられた「(大きな)城」、「金堂城」があったと言われています。

 鬼門には寺を建てることはよく耳にしますが、そのものズバリ、城塞を建てるということは、「おまじない」も兼ねた実利(防衛の要)も備えた建造物だったといえましょう。

建造設置(詳細不明)を「応仁の乱」の頃を思量すれば同族の佐々木氏京極系への対応だったのでしょう。

どちらの守護大名も東西に同族が別れて戦ったのがその乱でした。