被災者補償打ち切り と 「社会に復讐」

台風並みの暴風と寒気をもたらした低気圧は、北海道に居座っているそうですね。私たちは天候というもの、そして天変地異(地震・津波・高波・液状化・落雷・竜巻・原発事故・・おっとこれは人災でした・・)もそうですが、自分がその災禍を受けなければ「よかった」と胸を撫でている姿があります。

 

 本当はその裏で無茶苦茶に苦しんでいる人がたくさんいるのだ、ということを忘れてはいけませんね。きっと次、自分がその手の災禍に遭遇する番なのですから。

 

 人災のフクシマの原発で路頭に迷う被災者2万人が東電から補償を打ち切られたというニュースを聞きましたが、これも無茶苦茶な話ですね。

それはどういうことかと言うならば同等の事故が浜岡であれば私たちも同じ様に中部電力から放り出されることが推測できるということです。

微々たる補償と少しの時間が経って「無かったこと」とされることを推測するのはいたって自然なことです。

 

 まぁ「どうにでもなれ」と卑屈になって考えれば、この地は年がら年中といっていいほど東に向かって風が吹いていますので何かあれば首都圏も酷く巻き沿いになることは必至。

何せ私たち牧之原市民の「その時」の逃避シミュレーションは「西あるいは北」に「即座に」です。間違っても東部はヤバいのです。私のいる場所は逃げるには難が大有りですが。

 

 それはむしろ「風」に大きく影響されますのでピンポイントでトーキョーの「国会議事堂の方」に向かう筈です。

フクシマで作られた電気を使っている東京の人たちが福島の人々の困窮を横目に「脳天気」の皮肉があるのですから、何も関係ない東京人が名古屋圏の電力供給の要となっている浜岡の迷惑を被ってもいいじゃあないですか。そんなものですね。

何せ再稼働を連呼して、それを方針決定するのはあそこの地ですからね。

 

 まぁ、人間の愚かな考えなど一笑に付すが如く怒髪天を衝く、超越した力によってすべてのものが捻じ伏せられるのですから、「どうにでもなれ」を決め込むしか無いのですが。

人為的なくだらない凝り固まった、あるいは経済のみに拘ったことによって理性を失って挙句にミスを犯す醜態を見せつけられるのだけはお断りしたいものです。

どうせ責任など無いという「想定外」を理由にして誤魔化すのでしょうから。

 

 さて、「社会に復讐したかった」などという所謂「台詞」なのか「大義?」をもっての行動なのか、自暴自棄になって無茶無体な行動を起こす人が目立っています。

 気持ちは大いにわかります。推測するにイジメ、孤立という異常な成長過程とネット依存に各家庭個々の問題等複雑に絡み合ってまた、社会全体を覆う閉塞感もあるのでしょう、老人ならぬ若者の暴挙、暴走が目立ちます。

 

 他人へのいたわりも愛情も悲哀というものをも微塵にも感じさせない冷酷性溢れる自己顕示?、ハッキリ言ってあなたを覆う社会がオカシイのです。極まった「個人主義」、もしかして最近の「拝金主義」流行の一端なのでしょうか。

誰でもそういう「焦り」は多かれ少なかれ持って生活しているのですが、自分だけ特に「貶められている」と錯覚してしまうものなのでしょう。

 

 そういう個人の不平等感に社会が「聞く耳」を持たないという雰囲気を醸し出しているのです。

この件、坊主として耳が痛いですね。まことに。

そうです!!刃物を持ち出されるのは遠慮願いたいものですが、自暴自棄を起こすのでしたらまず「寺」の門を叩くべきですね。

 坊さんの本来の仕事は葬式でも法事でもありません。「同じ人間(同朋)として人の話(悩み)を聞く」のが坊主の仕事です。

 私もいつでも窓口を開けております。

直接いらしていただいてもかまいませんし、もしや「のっぴきならない」用件ならば深夜でもおつきあいする所存です。

ただし当方の頭のスッキリしている時間がうれしいですね。

 

 それから一言、どうしても「無茶」をすると決めたなら相手を不特定多数の一般人にするのはどうかと思いますよ。

これはあなたの名誉にかかわることですから、今一度「理」というものを思考しなおしてください。

 日本の歴史上弱い者、丸腰の者に向かう者が勝ちを得たとしても「卑怯者」呼ばわりされることは必定です。

弱者狙いの闇に紛れての待ち伏せは安直すぎます。

「卑怯」と言われて後ろ指を指されることになるでしょう。

法社会だって許容しません。あなたが憎む社会に逆に裁かれることだって本意では無いでしょうに。

 

 極論ですがすべてを放り投げる「大義」(虚勢を張ってもいけません)があるなら無謀・無意味と揶揄されましょうが「永田町」を訪ねることが「本」でしょうに。

そこには「国民に全責任を負っている」と自負するソーリが鎮座しているでは有りませんか。

古き昔から良き武将は良き大将(とりあえず責任者)の首を狙うものなのです。自分をまず貶めてはいけません。

 

 そしてまた国会の烏合はこういう末端の社会事件にこれこそ真摯(あの人たちが最近好んで使います)に目を向け、「弱い者を手にかけるのなら我に集え」と声を大にして発するべきです。それができないのは御身大切だからなのでしょうか?

 

 私も十分に弱者の部類で「役に立つ」「解決する」などとは決して申せませんが、何かに押されている「動的衝動」に駆られている貴方様のお話は同座で聞かせていただき時間を一處させていただきたいと思います。

 お説教など毛頭する気はありません。もしかすると何か指針となるものを見つけ出せるかも知れません。何かが開けることがあるかも知れません。

 

まずあなたの命を大事にして「切れない」(捨てない)で欲しいと思います。

 画像はこの1年半くらいで切れた数珠たち。そろそろまとめて修理に出さないとマズいところ。数珠は切れたら捨てずに修理です。

在家の方から見れば驚かれるかも知れませんね。

 使用頻度が高いせいか私の数珠の使い方が手荒いのか結構簡単に切れてしまいます。

通夜や法事で切れた時は酷くバツが悪いものですから(私も含め一同狼狽します)、紐の劣化はいつも注意しています。

切れる前に注意していれば事なきを得ます。人間もまた肉体も精神も日々劣化していきます。メンテナンスの「機」が不可欠なのです。

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 08 3月 2014 08:50)

    この世は「右肩上がり」でないといけない。
    どうしてとどまることは許されないのか。
    不思議でなりません。
    給料も上がり続けなければいけないのでしょうか。
    上げるためには売り上げ増、そのためには効率を。
    どこか間違っているのではないでしょうか。
    だから人類は地球を食べて滅ぼしてしまう。
    「足るを知る」経済も心も。
    そんなことを言っても欲が自分をつかまえている。
    そんな自分を嫌になりながらも働かなくてはならない。
    矛盾だらけの人生。真っ暗闇じゃあござんせんか。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 08 3月 2014 22:29)

    ありがとうございます。
    甘い高度成長期を味わった方々と「便利で安価で快適」を一旦満喫した人々が、その温泉極楽気分を忘れられないのは致し方無いのですが、「求めすぎる」飽くなき欲望は「成就できない」壁に当たって人々の心をも殺伐とさせてしまいました。
     また「働かざる者食うべからず」という語が大手を振って闊歩していた時代ならいざしらず、「働きたくても仕事が無い」時代でもあります。
    仕事が無いでは夢も希望も無いですよね。
    凋落ギミの日本経済に経済界の焦燥感が浮足立って裏で蠢いている姿も窺えます。
    淡々と与えられた仕事をこなしていくだけですね。
    余分な事を考えるとたちまち自縛に陥って心身ともに萎えさせられることになりそうです。
    よって最近は「諦めどおし」の感があります。