「転石苔を生ぜず」 どう解釈するか 中庸

年配の方に聞く「昔の話」は何とも新鮮。

この日は戦後の食糧難の頃、相良で造った塩を汽車に乗って各地に持ち歩き、米と交換してもらったという話。

さあ、念願の米を得て、上りの列車に席を得てしばらくすると前の車両がザワつき出して、一斉検問開始の報。

捕まれば「食管法違反」の罪で米は没収、検挙されてしまいますので折角手に入れた米を泣く泣く車窓から放り投げて事なきを得たそうです。

警察をやり過ごした後、次の駅で降りて拾いに戻る人もあったそうですが本当に取り戻せたかどうかはわからないと。

 「配給」という歴史を歩んだ日本人、当時の様子を忘れていますね。そんな歴史は繰り返したくありません。聞き飽きたあの「降雪」という単純な自然現象での「想定外」、他地域かつ一瞬のことでしたが食糧の大切さを今もって感じさせられました。

 

 さて、標記、誰でも知ってるこの諺、私は入試英語で覚えました。英語から日本語を覚えた初の例でした。

「A rolling stone gathers no moss」ですね。

この諺の意味、二通りあってそれぞれが正反対の意味だからややこしい。

①活発な活動を続けている者は,いつまでも古くならないこと

②一か所に落ちつかない者は大成しないこと

です。

①は「動」にポジティブさを、②は逆に「動」にネガティブをイメージさせています。

 

 いったいどっちがいいのかといえば、やはり「中庸」で

しょうかね。「中庸」は仏教的に言えば「こだわらない」という意味ですね。

 

①だと奈良の国立博物館の地下にかかっていたかと思いますが「中の字」という掛軸のことを思い出します。

臨済の白隠和尚の字だったのか何だったのか記憶が飛んでいますが、軸に記された文字は鮮烈に記憶しています。

「動中工夫 勝静中 百千億倍」と非常にわかり易く、私はニッパツ時代、この言葉を社内の物置の外扉に貼りつけて独りよがりな悦に入っていました。

 これは色々な解釈がありますが「禅というものを静寂な場所で行うことをベストと考えがちだが、人混みや街のなかで行う方が断然に優っている」という感じでしょうか。

そんな感じから私は「動」こそ有意義であるという風に捉えて、単純に「サクサク俊敏に動いて仕事をしよう」くらいの気持ちで記したものでした。イメージとしてはまったくそのようにとれます。

しかしもともと真宗の教えは聞法ですので、「静」の空間は有りえない場所になります。

 

②は日本人が大好きな「一生懸命」という語の本来の語源、「一所懸命」の意、「一つの安堵された土地を子々孫々に伝承したい、守りたい」というが如く「動くな」を意図する解釈を思います。

幼少より耳に慣らされた歌詞に「苔のむすまで」とありますが、日本人的であるのは「変化や無常」(チェンジ)をむしろ忌避したものに馴染んだ②の思想が近いかも知れません。

 

どちらにも偏らず、私にとって、その意は「体は動かして健康を維持、相良にずっと居つづけたい」といことになります。いいとこ取りです。

ただし①②とも果たして一体どうなるかわからない、というのが人生ですね。

 

 私の血管も、原発もバクハツしたら終わりです。

まぁ私の血管でしたら、家族も檀家さんもお寺も別問題、後者でしたら「The End」~The Doors~ コッポラ監督の「地獄の黙示録」を思い出します。

 

 画像は「奥の墓道」のチケットゲットの報。

やはり彼も「墓石」ならぬ「ストーンズ」がお好きで今回も相当気合いが入っています。アリーナ席のようです。

私は前回の東京ドームへは同行いたしました(私は横浜時代でした)が4日は総代会前日でパス。

どうしても相良からは遠くて辛いです。

 

 しかしマイケル(ミック・ジャガー)の「動」を目前にしたら私たちの「歳をとった」はただの泣き言に感じます。

何しろ「昭和十八年生まれ、71歳」は信じられないくらいの強烈なパワーで動き回ります。