「~の乱」日本史上起こした方が勝った例

恵美押勝の乱(藤原仲麻呂)について触れましたが「~の乱」の如くに歴史上出てくればそれは「勝者側からの表現」でその名が使われれば「負けた方」。

 しかし負けた方が政権側であって乱を起こした方が勝利して政権についたという(殆ど今で言うクーデター)「乱」が古代史でありました。

これも日本史受験必出の「壬申の乱」ですね。672年で「むなしいお二人・ロクな二人」等語呂合わせ色々。

 ハッキリ言ってこれは、天皇家の後継者争いが発端。

近江は大津に京があった頃のお話で、天智天皇が我が子の大友皇子を太政大臣につけて後継指名したあと、間もなく世を去ってしまった(46歳)ことから俄かに天下の雲行きは変調をきたします。

 

 ここへきて天智天皇の弟の大海人(おおあま)皇子が一旦は出家して兄の意を汲んだかに見えたものの兄の死をみるや挙兵におよんだというわけです。

家の当主の後継者なるものは「その子」であることはまず大抵スンナリ行くところで、周囲からの納得も得やすい『暗黙』があるかと思いますね。後の武家世界での惣領制などがそうです。ところがこの件は「御当主の弟」が「私が」と手を挙げた、ということに違和感があったものでした。

また後継指名を受けた者が「年端もいかない小僧」であるのならいざしらず、これは殆ど天皇が指名したに等しいといえる、太政大臣の位にまで就かせた大友皇子24歳だったのですから。

 

 「反乱軍」の巧みな戦い方と根まわし、支援軍確保により朝廷軍は敗北、天智天皇の息子大友皇子は自害させられました。

ここに「大海人皇子の乱」は彼が勝利となって晴れて天武天皇となったというワケです。

正当性の確保は戦いに勝つこと、「勝った方」の理であることを知らしめた例です。

 

 近江高島には壬申の乱の激戦となった大友軍の籠った三尾城という地があるそうですが、あまりに昔の「古代史」のためか場所が特定できていません。

高島という地は山際まで琵琶湖の水が迫っていた風光明媚な場所で、こちらには恵美押勝の乱で捕縛された押勝子息郎党が処刑されたといわれるもう一つの伝承がある乙女ケ池(場所はここ)があります。

ちなみにこちらの池、長い木橋が掛かっていますが、今のNHK朝ドラのロケに使われているとのこと。こちらに「上野不忍池」を想定させているそうです。

 

三尾城は③画像の山中かと。「日本の渚百」に選ばれている萩の浜。夏の靄がかかっていますが晴れていれば最高でしょう。