坂口安吾が指摘するメンタル部分

今少し気持ちが早まってますが、この頃になれば「桜の森の満開の下」を馬鹿の一つ覚えの如く思い出します。

まぁこれを思い出させたのは季節感では無く、「戦争に駆り出されて死んでいった人たち」のことをどこかの政治屋さんの発言からチラッと脳裏に浮かんだものです・・・。(ブログ13.03.22)

 

  私が0~2.3歳まで過ごした小田原の早川口というところ、殆ど海の目の前です。といっても記憶はゼロ。

母に愛犬リジーと一家でそちらに暮らしたことを聞いていただけです。

そちらと目と鼻の先に安吾が一時暮らしたと言われる家があります。

 我が家の「北の方」(坊守)が私たちが横浜へ転居する直前に、その家の前の電柱に右折時、車の右側をポッコリやって助手席の私が涙目になったことを覚えています。

早川漁港側から旧早川橋を渡ってクランクを「あらく」の浜へ向かって右折する際の事故でした。

 

 さて、「桜の森の満開」ならぬ「電柱の近くは恐ろしい」ことをまざまざと知らされたわけですが、安吾はもっと私たちに色々な事を教えてくれました。

安吾の奥さんをモデルにした「鬼の褌を洗う女」という小説には、本当は実力があるけれど本番にはとことん弱い、ちからが発揮できない相撲取りについてのその心理的分析がされています。

 

 小説中では「相撲」というスポーツについて語っていますが、私はいずれのスポーツにも同様なことがあてはまると思うところがあります。

そのことを安吾は「精神侮蔑、人間侮蔑、残酷、無慙」という表現を使っていました。その辺りの部分を抜粋しました。

 

 『~あっさり勝負を投げてしまうところがあって、しつこく食いさがるねばりがない。

稽古の時は勝っても負けてもとても綺麗で、調子づくと五人十人突きとばして役相撲まで食ってしまう地力があるのに、本場所になると地力がでずに弱い相手に負けるのは、ちょっと不利になるとシマッタと思う、つまり理智派の弱点で、自分の欠点を知っているから、ちょっとの不利にも自ら過大にシマッタと思う気分の方が強くて、不利な体勢から我武者羅に悪闘してあくまでネバリぬく執拗なところが足りないのだ。

 

 シマッタと思うとズルズル押されて忽ちたわいもなくやられてしまう。弱い相手に特にそうで、強い相手には大概勝つ。

つまり強い相手には始めから心構えや気組が変って慎重な注意と旺盛な闘志を一丸に立向っているからなのである。
 

 私は勝負は残酷なものだと思った。もてる力量などはとてもたよりないもので、相撲の技術や体力や肉体の条件のほかに、そういう精神上の条件、性格気質などもやっぱり力量のうちなのだろうか。有利の時にはちっともつけあがらず、相撲しすぎるということがなく、理づめに慎重にさばいて行く、いかにも都会的な理智とたしなみと落着きが感じられるくせに、不利に対して敏感すぎて、彼の力量なら充分押しかえせる微小な不利にも頭の方で先廻りをして敗北という結果の方を感じてしまう。

 

 だから一気に弱気になって、こんなことではいけない、ここでガンバラなくてはと気持をととのえた時には、もう取り返しがつかないほど追いこまれていて、どうにもならない。~

 

 彼らの人生の仕事が常に一度のシマッタでケリがついて、人間心理のフリ出しだけで終る仕組だから、だから彼らは力と業の一瞬に人間心理の最も強烈、頂点を行く圧縮された無数の思考を一気に感じ、常に至極の悲痛を見ているに拘らず、まるでその大いなる自らの悲痛を自ら嘲笑軽蔑侮辱する如くにたった一度のシマッタですべてのケリをつけてしまい、そういう悲劇に御当人誰も気付いた人がなく、みんな単純でボンヤリだ。』