女子供が城に籠れば・・「大脱出」於阿無物語

世にいう「ああ、今の若い衆は・・・」は年配者の嘆き節。

自分もそのフレーズを聞く側から、いつしか吐きつつある齢となっていますが、果たして何時まで経っても頭の中は「たるくてみるい」ままですから、その言葉を使いたくても「お前は無理だ」と高いところから如来様が腕組みして溜息をついているようにも窺えます。

 

 だいたい昨今のその「若い衆」ら、「女子」たちも含めて、どう考えてもそこいらの(私を含めた)オヤジ共が、上から目線で物申すことなどあり得ないくらい素晴らしい仕事をしていますね。

まったくどちらの世界でも驚き以外の何ものも無いほどの活躍が際立ちます。

 

 先日は、次男が珍しく映画を観たいというので、たまには荒唐無稽なアクション映画もいいかと思い同行しました。

次男の意見を聞いてそんな時間をとることは、今後「そうは無いだろう」とも思いました。

 シュワちゃんとスタローンという、かつて銀幕で暴れまわっていたオヤジというか御老体二人の共演。映画はあり得ないような監獄から脱出するというストーリー(「大脱出」)ですが、案の定ハチャメチャでした。

息子が映画を見て「良かった」と言って満足していたことが私らにとって「良かった」ことでした。

 

 さて、戦国時代の終焉ともいえる国内勢力を東西二分した戦い、関ヶ原(慶長五年 1600)の話。といっても東西の雌雄を決した本戦場、関ヶ原ではなくて、そちらにほど近い大垣城の「その時」です(位置関係)。

 

(後年この物語の「大垣城」の聞き書きは間違いで実際は佐和山城の出来事だったというのが通説になっています)。

 

大垣城は当初は佐和山城から出た総大将の石田三成率いる西軍の籠城決戦の候補地でした。結果的に大軍を率いて着陣したのが関ヶ原だったわけです。

 関ヶ原にて西軍敗走が決まると各地の西軍方諸城潰しが始まります。

 東軍方諸士により編成された攻城が同時進行的に行われましたが、この大垣城(守将は三成の妹婿 福原長堯)も水野勝成、西尾光教、松平康長らに囲まれました。

相良氏でお馴染みの肥後人吉城主の相良頼房が経緯あってこの城の三の丸を守衛しています。

 

 この城の包囲網からの「大脱出」劇があります。

「おあむ物語」という聞き語りの書です。

関ヶ原当時のおあむさんの年齢は10代後半から20代前半とのこと。かつて家康の書の先生を勤めた山田去歴の娘が見た一家の大垣城でのお話です。

 未亡人となって晩年に「庵」に入ったのか「於庵さん」と呼ばれたそうで「おあむさん」は本名では無いようですね。

 

 江戸の平和な時代に孫たちに物語して欲しいとせがまれて話したものを、その孫たちがいつしかその子孫に伝え、書き記したものがこの書。この読み物は当時流布していたようです。

 

 内容は短いですが、まさに史実に基づいた戦争スペクタクルで、現代に映画化されないのが不思議なくらいです。

きっと誰かの目にとまってしっかりしたシナリオが出来れば近いうちにクランクインなどということもあるかも知れません。

 記された内容もやはり大坂城落城時の「大脱出」劇を記した「おきく物語」と同様、当時の城内の様子が克明に描かれて、興味をひくものだらけ。おあむさんの稀有な体験談はあまりにも新鮮、読んでいてわくわくしてしまいます。

特に最後の方で語られる

 

『今時の若衆ハ 衣類のものずき こゝろをつくし 

金(こがね)をつひやし 食物にいろいろのこのみ事めされる 沙汰の限なことゝて・・・』

 

 これは例の「ああ、今の若い衆は」ですね。

年配者から見ればいつでも若い衆は嘆息吐息の対象であって溜息をつかれる者もいづれはその立場となるのだということも改めて納得しますが、それにしても時代を遡れば遡るほど生活は質素で、人は忍耐強く、現代の如くの贅沢ものに満ち溢れた世界とは異次元を感じます。

 おあむさんも八十余歳の生涯だったそうです。昨日のブログの「たけ※さん」もそうですが、健康で長生きの秘訣は「苦労しなさい」それも「辛辣な」と示唆しているように感じます。

またこの書は特に戦乱の時代、そして戦争というものがいかに女子供、弱者に辛い思いを強いるのか、よく記されています。

 

こちらに岐阜県郷土資料研究会の丸山幸太郎氏の訳文が入手できましたのでHP左ナビゲーションに掲載させていただきました。

原文資料は岐阜県図書館内TEL058-275-5111(内線284)へお問い合わせください。