たけ※さん 大正三年生まれ 聞き書き

戦国時代が「男尊女卑の著しい時代」と記しましたが、そもそもこの国は江戸時代から明治大正昭和と近代化とともに少しずつはマシにはなっているものの、いずれにしろどの時代も女性の地位について考える事自体がナンセンス、当然の如くそんな権利は男たちに次ぐものであって、特に物の少ない時分ですから常に女たちは我慢や忍耐を強いられていたことでしょう。

 

 蓮如さんの御文に「五障三従の女人」とあるよう「成仏」さえできないと誰もがそのことに疑うことなく当たり前のように過ごしてきた長~い歴史がありました。

厳密にいえば私たちはずっとその思想を引きずって来たわけで、あの戦争に負けたおかげで「みんな平等」という考え方が迅速に広まっていったのです。

話がそれますが当流お勤めの最後、回向に「平等施一切」とあるでしょう、この様に平等の概念を記していることなど何て斬新なのでしょう。あらためてそう思います。

・・手前味噌でした。

 

 ちなみに五障は「五つの仏になれない」こと。三従とは幼少時は父に従い、嫁いでは夫に、齢老いては息子に従うということですね。

一生を従属的に生き、人の上に立って指導者になるなんてことはトンデモナイ発想でした。

 

 最近、「女は家に居るのが理想的」と仰った方が居ましたね。

それは女が家に常駐していてくれれば、「保育園が足りない」とか亭主の父母のための「介護施設が足りない」だとか、国のこれまでの無施策についてゴチャゴチャ言われることはなかったでしょうからね。

 

 さて、「たけ※」さんとのお話は新鮮でした。

彼女は代々甲府のお城の宮大工の家に生れ、その家は武家屋敷にあったそう。

幼いころは「お嬢様」の如く育てられ「何の苦労も感じずに」過ごしたとのこと。

 

 色々経緯あって昭和16年頃御主人に連れられて当地の御主人の実家にやってきたそうです。

とにかく当初はこちらの「環境の違い」にひたすら泣いたそうです。

かったから泣いたのは言うまでも無いことですが、その辛さとは今では全く考えられないことばかりです。

 

①甲府には水道が来ていたのにこちら(原~台地の上)には水道が無かった

②電機は裸電球1個だけだった

③トイレは家の外にあって「恐ろしくて恐ろしくて」・・・

④ご主人は戦争に出て不在。同情して話のできる人は殆どいなかった

 

 そんな環境の中、どこにでもあるようなご主人の父母や御主人の兄妹らとの関係と絶対的困窮の食糧事情なども重なって涙が止まらないほどの辛さとなったのでしょう。

 

 実家からは嫁ぐ際、「何があっても実家には戻るな、家の門は開けない」と念押しされていますのでただただ耐えるばかりだったと。

今の如く「離縁」などは考えもつかない時代だといいます。

 

 たけ※さんの家での仕事は、勿論炊事洗濯。

辛さに拍車がかかったのはやはり水利で、すべての水は山を下った谷川からの人力での汲みあげ。

肩にはタコができたそうです。

草履もボロボロのものを強いられて替えは無し。寒い日の水汲みや洗濯は心底冷え切ったそう。

「今よりずっと寒かった」と仰っていました。

 

 ヒビだらけで、しもやけに難儀したそうですが義父は軟膏は我が子供たちにのみに使わせて彼女には「飯粒を潰して摺り込め」と扱いがまったく違っていたそうです。

だんだんと悔しさが憎しみに変わって行ったかも知れません。

当人は決して「憎い」という言葉は使いませんでしたが・・・。

 

 さて、現代人では想像のつかないたけ※さんのエピソードから。

こちらに来た当初、苦労して谷から汲みあげた水で風呂を沸かしたそうです。

家族がすべて入浴したあと八番目にその風呂に浸かるのですが、体に虫のようなものがくっ付くので悲鳴をあげたそうです。

しかし良くみるとそれらは人間の垢。

台地上での湯水は貴重品、洗い場で「流す」という習慣は無かったのです。

家族全員風呂桶の中で体を洗うのですからドロドロに濁った風呂になりましょう。

まさに「湯水のよう」とも形容されるような入浴は最近になってからですね。

 

 義母からは2~3日に一回夜中に叩き起こされて御内佛の前に正座させられ、「お説教タイム」があったのも辛かったそうです。

義母の怒りは大抵がお外での立ち話の件、お使いに時間がかかって遅れてもお説教の時間が待っていたそうです。

 

 また義父は特に、たけ※さんの産んだ子供たちが女の子ばかりだったことに対していつも不満を漏らしていたといいますが、そんなことは嫁の責任ではないですよね。

しかし一昔前までは男の子の産めない嫁へのプレッシャーは半端では無かったのです。

 

 洗濯も谷に下りたらできるだけ下流に廻らなくてはなりませんので細い道を洗濯物を持って素足同然のボロ草履で往来するはこれまた難儀。

義父逝去前に、伏せて寝たきりとなったお世話をしたそうですが、義父のおしめを毎日洗濯をしに谷に通ったそうです。

 

 義父が逝去する2日前に枕元でしみじみと語ってくれた「ずっと辛い思いをさせてすまなかった」という言葉は嬉しすぎて言葉もなかったと仰っていました。

ここに仏教的な「ゆるし」を見たような気がしました。

 

 そして「恐ろしい恐ろしい」トイレについてイメージ湧かないですよね。

これは敷地内に大穴を掘って板が2枚渡してあるだけのものですから(おしるし程度の屋根はあったと思います)、暗い中、用足しに行って誤って「落下する」恐ろしさも含んでいます。

当時は子供の頃に1度や2度はそこに落ちることはあったといいますね。子供時代に他者が用たしをしている際に石を投げ込むなどという悪戯も聞いたことがあります。

これがよくいう「便所ったま、落ちた」のフレーズですね。

ウォシュレット全盛の時代に今の子供たちが絶対に想像できないトイレの構造でした。

 

①②画像は「たけ」さんならぬ「梅」にスイセンその他。

あまりの暖かさに誘われて遂に開花。小生、今年第一回目の半袖になりました。

もっともっと暖かくなって欲しいですね。