遠州見付の城 磐田 見付端城

時宗の嶺松山省光寺の近くには浄土宗の大見寺(場所はここ)があります。

こちらの境内から北側の磐田北小学校にかけては戦国期、見付端城というお城がありました。日頃の鬱蒼とした森の中の山城を歩いているせいか、こちらはまさにサラッとした住宅地でまさかこちらにお城があったとは想像だにできません。

勿論平城で、「何のために」と言ったら国府磐田の守護が主たる目的でしょう。

やはり、各輪城と同じような流れ、各輪家は貞世分家流ですのでどちらかといえば今川貞世により近いスジの人が入って貞世の本拠地とした堀越城(→海蔵寺)と連携してあった城だと思います。

 

 こちらの城は利用価値の低さから別の場所に城を設けた家康により廃城になっていますが堀越六郎貞基(用山)元の名を山木六郎貞基(今川貞延の次男)という人がこの城に入って今川義元の命にて攻め込んだ犬居城主、天野虎景の手で殺されたといいます。

ちなみにこの人の奥さんが小田原北条、氏綱の娘の高源院崎姫(小田原城と高源院崎姫―今川徳子氏)で、六郎貞基が殺される前に離縁して小田原に帰ってきている様です。

離縁は花倉乱の五年以上前のことですので、北条氏綱が「空気を読んで」差配したものではないでしょう。

 

 六郎貞基の死は勿論、今川義元家督相続の際、花倉城に籠った高天神城の福島(くしま)家が推す玄広恵探派であったが故の義元による反義元派掃討の一環だったと思います。

 

 縄張り図から主たる館があったのは大見寺さんで小学校方面が二の丸とのこと。小学校側と近隣は住宅地のためまったく当時の面影を感じることはできませんが大見寺さん境内には今も土塁が残っています。

 

夏ごろの図です。凛々しい宝篋印塔もしっかりチェック。