遠州の山城 穴ケ谷城のドタバタ

こちらのお城、一応は牧之原市指定はされているものの超マイナー?な城跡となります。

勝間田城の支城で本城から見て南東側の台地の西側に張り出した部分にあります。

勝間田川の造った扇状地を両城が挟み込むように睨みを効かせていたことでしょう(場所はここ)。

さしての戦闘といったものも無く勝間田城落城と期を一にして守兵退去落城して以来この地は放置され、近年になって茶畑へと姿を変えていますが例に違わず「耕作放棄が進んでいる」という噂を聞いていました。

 

 穴ケ谷城の位置については承知していましたが、教育委員会のМ氏からの口伝と私の思ったところの登城経路について相当乖離した咀嚼があったため、当方が勝手に「難攻不落」振りを演出してしまった感がありました。

 

 というわけで、まともに主郭付近まで辿りつけたのが3度目のチャレンジにしてやっと、それもまったく見当違いの登城方法でした。

 

 最初のチャレンジと2度目はいつかの夏でした。

「仁多の薬師」を目標にしてその背後の山が「穴ケ谷城」は判っていても、神社背後から山に伸びる道がスグ行き止まりで断念し、たまたま下の県道を通りかかった方に聞けば、「ボサボサで上れない」「道は無くなった」と仰っていましたので、2度目は県道方向、西側に廻って行き詰った経験があったりでの3回目。

 

 後でわかったのですが、この城址頂上付近は開削された茶畑が続き難なく進める登城路がありました。といっても農道ですが。軽トラだったら十分上までOKでしょう。

 本来知らない場所においての放浪は「聞き取り地元情報」が命となりますが、場所を聞いての「わからない」は地元の人のやんわり表現で「来るな」の意思表示だったことがわかりました。やはり厳密にいえば私有地なのでしょう。

 

 冬場を待って今回、神社後方の道を右に進み、行き止まってから東側の藪を掻き分けて崖に貼りついて、よじ登ってきました。

こういう無茶行脚は正月休みで合流する「奥の墓道」の同伴があるからこそできる荒技で、普通は一人きりではやらないところ。

 

 こういう「お遊び」をすることによって戦国期の実際の徒歩組(かちぐみ)徒卒の城攻めの苦労というものがわかるというものです。

ただしロープでも無ければ降りる事は出来ないような崖でした。

 

 彼は時折必死の形相、苦笑もしつつ、足をズルズル滑らせながら言っていました。『「進むは極楽、退くは無間地獄」じゃあなくて「進むも地獄、退くも地獄」』。

下を見れば私の崩す石ころが容赦なく彼に降り注いでいました。

 

 崖を登り切り、緩斜面の雑木林から尾根を歩くと舗装された農道に当たって愕然、「道」に出たというわけです。

「お前、地図見ただか?」とぶち怒られました。

神社左の道の右に上がる行き止まりの道では無くて左側の舗装された農道が正解でした。

この方向は一瞬正反対にあたっていましたが彼がスマホで提示した現在地の地図には、しっかりその登攀路が記されていました。まったく間抜けていましたね。いやはや・・・

まぁそういうこともつきものです。

 

 郭を仕切る土塁の確認はできましたが、茶畑に開墾されていることと東西の深い谷は木々が繁茂して余りハッキリしない城址です。しかしスケールとしてはまずまずの大きさで南北に細長く張り出した段丘と深い谷はやはり「難攻不落」を誇っても申し分ないところ。

西側からの登城を試みましたがここでその無謀を知った次第です。

籠城の守り手の人数が充実していれば(攻め手は籠城組の10倍以上が必要といわれています)、事前に投石用の石ころを用意しておくだけで十分持たせることができましょう。

勝間田城に近いこちらを(陣営をコンパクトにできる利点)決戦の場にすれば勝間田氏はもっと持ちこたえたかも知れません。

 

 この城のウリである東側の谷の数段に渡る堅堀(たてぼり~等高線とは直角-タテ―に作る空堀)は認識できませんでした。どうやら経年で埋まってしまっているようです。

お茶畑は、聞いていたほど放棄地は無かったように感じました。

一旦上がってしまえば平坦ですから作業性は悪くない場所です。

 

 ①~⑥が薬師堂近く。⑦の鉄塔辺りが物見櫓があったと勝手に推測。⑧のコースで登城。あとでそのバカバカしさが判明します。⑨が「奥の墓道」、崖から這い上がるの図。

⑫が「釘が浦」と勝間田氏終焉の地、宮山砦。道場山、東西山とも。

⑬が日没の相良方面台地。⑭が薬師堂からの登攀路正誤。結局この道は⑮のように城址方向に向かいます。

翌日は勿論筋肉痛が。