藤枝富士見平の麓 鬼岩寺 墓石の数が壮観

蓮華寺池公園の西方に立ちあがる富士見平からその南側の麓には行基が開創したとい云われる古刹の鬼岩寺があります(場所はここ)。

 足利六代将軍義教の遠足、駿河今川館に入場する前日の宿営地はこちらのお寺だったのです。

というわけでその背後にある山(現在の富士見平)に上がって富士を愛でたとていうところです。

 

 私が少しばかり気になったのは、現在はコンクリートで階段が作られていますが、あの急な坂を果たして将軍が自分の足で上ったものなのでしょうかねぇ。

駕籠等の乗り物や牛馬は無理ではないかと思った次第です。

まさか私が考えるほど柔ではないですよね。

私の場合は何度か立ち止ってしまった息切れの220段でした。

 

この寺の背後の富士見平含めて境内地の山からは、夥しい石塔が出ていることから、やはり蓮生寺さん日没西方の浄土世界を意識しているということはまんざらでも無さそうです。

 

これだけの五輪塔たちはこの地区では余り目に出来ない壮観さがあります。勝間田道場の清浄寺の勝間田氏墓石群が納まっていたように主だった石塔は覆堂(ふくどう)に並べられています。

 

さて、境内看板に出土数「1600パーツ?」との記述がありましたが、山の中で風化によってバラバラになったとしての部材として、大雑把に五輪塔主体で「÷5」の計算は誤りです。

 

というのは五輪塔は比較的権威財力のあった埋葬者だと大型のものとなり「×5輪」(下から順に地水火風空のパーツ)ですが、中型のものですと3(地水火)+1(風空 合体)であったり1石で五輪を造ってしまう小型の物があるからです。

画像の如く圧倒的に「小型の五輪一体型」が占めていますのでこちらで発見されたものだけだとおそらくはそれでも1000体近くを推定します。

竹藪の下にはまだまだ当時のままに地中に眠る石塔があると思いますね。

 

 中央の柱には幾多に及ぶ田中城にての合戦で命を落とした武将たちの墓石であることを示唆している文言が記されていますが、覆堂内の大きな宝篋印塔の銘は「矢部隼人佑」永徳元(1381)で、田中城周辺での本格的戦闘の起こる以前であり、すべての墓石を田中城に結びつけることはできないでしょう。

 

 「矢部隼人佑」という人は今川家の武将で花倉城の南、彼が仕えていたと思われる今川泰範の墓がある長慶寺の南東側平坦地に屋敷(場所はこのあたり)があったといわれます。