「あらあら笑止や」 数珠は必携

新しい年に足を踏み入れて・・・

またも「1年命が繋がった」と少々安堵して、今年も一所懸命に息を吸って吐いての連続ができていればおめでたきことなどと感ずるのみの1月の最初、1/365の日。

 

 他のお坊様方とはちがって気の利いた挨拶など、いくらそれが「常識」で、厳粛な作法であったとしても、捻くれ者の私には素直な気持ちになれずに、もごもご、気が重たくなる日でもありますね。

まぁ、少々やらなくてはならないこと、やるべきことが待ち受けていることもありますが。

 

 1日過ぎれば1日齢をとる、それを重ねて365日、そして何処かで時間切れ。

父母伯母叔父従弟たちに、良く知るご門徒さん、そして何より自身の老化も顕著に・・・。寿命といえばそれまでですが、この日に思うことはやはりどうしても一休さん。

  

  「門松は 冥途の旅の一里塚 めでたくもあり 

                 めでたくもなし」

 

ただコレだけですね。これを記さなくては新年では無いというくらいの時節モノ。

 

「いずれの時か夢のうちにあらざる、いいずれの人か

             骸骨にあらざるべし」

 

の心です。

そういうわけで何とかよろしくお願いいたします。

 

 さて、私たちの基本の「き」である「息」(呼吸)については、蓮如さんの御文の中に見ることができますね。

 

 蓮如さんは、「息を吸って吐いて吸って」の普段私たちが当たり前の様にしている、「無意識の生」の継続について、これこそが「命の証」であるのだよ、と現代人に今一度訴えているようにも感じます。

そこまで「有り難い」こととしてつきつめるところ、凄い発想とも思いますし、ハッとさせられもします。

 

 一番有名な「白骨」5-16の御文でも「一(ひとつ)の息 ながく絶えぬれば」とありますね。

世に慣れ親しんで勢いが持続することを「息が長い」とも言います。その世界での「寿命が長い」ことですね。

 

 というわけで年初はまず蓮如さんのお説教から。

御文「二帖の五」です。ああ耳が痛い。

 

「最近、みなさん珠数を持ってこない人がいるけど、いったいどういうこと?」という前段。確か禅宗系の法要に参列した際に知ったのですが、「数珠を持つのは導師だけ」と指摘されたのは驚きでした。

 

 真宗では数珠必携はどなたも当然のことで、私など数珠を忘れて、蒼白になって買いに走るなどということはしばしば。

気が付けば数珠だらけです。それでも相変わらず朝、出がけになって数珠探しをしています。

それほどムキになる根拠はこちらの御文にて蓮如さんの苦言があるからです。

 

 「二帖の五」

『そもそも、この三四年のあひだにおいて、当山の念仏者の風情をみおよぶに、まことにもつて他力の安心決定せしめたる分なし。

そのゆゑは、珠数の一連をも もつひとなし。

さるほどに仏をば手づかみにこそせられたり。聖人、まったく「珠数をすてて仏を拝め」と仰せられたることなし。

 

さりながら珠数をもたずとも、往生浄土のためにはただ他力の信心一つばかりなり。それにはさはりあるべからず。まづ大坊主分たる人は、袈裟をもかけ、珠数をもちても子細なし。

 

これによりて真実信心を獲得したる人は、かならず口にも出し、また色にもそのすがたはみゆるなり。しかれば当時はさらに真実信心をうつくしくえたる人いたりてまれなりとおぼゆるなり。

 

それはいかんぞなれば、弥陀如来の本願のわれらがために相応したるたふとさのほども、身にはおぼえざるがゆゑに、いつも信心のひととほりをば、われこころえ顔のよしにて、なにごとを聴聞するにもそのこととばかりおもひて、耳へもしかしかともいらず、ただ人まねばかりの体たらくなりとみえたり。

 

この分にては自身の往生極楽もいまはいかがとあやふくおぼゆるなり。いはんや門徒・同朋を勧化の儀も、なかなかこれあるべからず。

  かくのごときの心中にては今度の報土往生も不可なり。

あらあら笑止や

ただふかくこころをしづめて思案あるべし。

 

まことにもつて人間は出づる息は入るをまたぬならひなり

あひかまへて油断なく仏法をこころにいれて、信心決定すべきものなり。

あなかしこ、あなかしこ。』

[文明六、二月十六日早朝ににはかに筆を染めをはりぬのみ]

 

藤枝の「日出」のメッカ、富士見平からの日没礼讃。

一足先にお天道様を。翌日半周廻ってコレが日出になります。