借用書 石坂周造「証人」は「成瀬蔵」 

あの借用書の「請人 斉藤延世」の隣に「証人」として署名捺印したのは「成瀬蔵(おさむ)」です。

 

 まず「成」という文字について。

「成」は「戈」(カ・ホコ)という字が元です。要は槍状の武器で、「たてとほこ」を表す言葉に「矛盾」がありますがこちらも「干戈」~かんか~と読んで「ほことたて」を表します。

 日本では「矛」の方(突いて殺傷するタイプ)が流行ったものですから「戈」(振り回したり払ったりして殺傷する)の方での「ホコ」読みは馴染んでいないようで、ワープロでは「ホコ」を「戈」に変換してくれませんね。

ただし我が国では「十文字槍」という形で「突いてよし、払ってよし」の「ホコ」を考案しています。

 

 というワケで「戈」由来の書体であればその「十文字槍」をイメージしていただければ・・・。

ちなみに「戈」という字を眺めてみれば左右の手に「戈」持つ姿を表した字、「我」を想い起こします。

そこで「我が儘」「我ん張る」という意を字体から考えれば、「我」は相当好戦的で相手を威圧強圧的な雰囲気を醸し出しています。

 尚、「我ん張る」同様、自分や他者を励ます意に使う言葉に「頑張る」と記すことがありますが、この「頑」の字は人間関係において劣悪な人を表す言葉ですので、どちらにしろその言葉「がんばろう」「がんばる」はその精神に「裏」を感じてしまい、それほど「素晴らしい」言葉では無いように思うのは偏屈な私だけでしょうか。

 

 現代私たちが見ている「戈」という字は柄の部分が斜めっていますね。ところが、その字の由来のイメージで「我が名」を背筋を伸ばして記せば柄の部分は凛々しく直立していなくてはならないものだったと思います。

そういうワケで、画像の「成」は柄の部分が「殆ど直立」しています。

 それ故一瞬、「生」に見えてしまいますが、棒部分が下の「大地」の部分を突きぬけることはありませんし、何より「点」があります。

「成瀬蔵」の「蔵」という字も同様に棒の部分(小さ目ですが)斜めになっていず、最後の「点」があたかも強い意志を主張しているようです。

 

 さて、「成瀬蔵」については浜松の林信志氏(全国成瀬会)より詳細を御調査いただきました。

林氏は画像②西方村成瀬家の系統、明治の書家「成瀬大域」の系統です。

当大澤寺は藤蔵正義の末っ子「祐伝」からの流れですね。

 

 尚、ブログでも記していますが犬山成瀬家は藤蔵正義の弟の正一の子息ではなく、正義の嫡男説を採用しています。

成瀬家7代目当主藤蔵正義が三方が原で戦死し急遽8代目として弟正一が跡を取りますが、当時のならいとしてはその次代を本流(兄正義)子息から入れる事は当然の事だったからです。当主嫡男が幼少の為当主の弟がその元服まで「家」を取り仕切るということですね。

 そして犬山城主、犬山成瀬家初代として正成が入ったあと、正一の子の正勝が吉右衛門家初代、成瀬家九代を名のり以降代々2400石旗本として幕末まで存続しました。

 その19代目が「成瀬蔵」です。

この人が相良に居て石坂周造の借金の借用書で「証人」として登場したのでした。

 

 「成瀬蔵」の詳細は林氏の調査によって知り得ました。

弘化二年(1845)大久保家に生れて、本多家に入籍、その後「安政から文久の頃」成瀬家に養子入り(9歳~18歳くらい)したとのこと。

そして慶應四年(1868)三月、代々当家役職の使番、2400石を継承していますが、それは大政奉還の後でした。

 その年の七月に「使番目付介」という役で「駿河表え召す連候家来姓名録」に登場します。

それには「家老 平岡丹波」を筆頭、幹事役に 「勝安房・山岡鉄太郎」そして全2525人中、上から33番目に「使番目付介 成瀬吉右衛門」の名が出てくるのです。

 

 慶應四年の八月には駿河に移住していますが、勝海舟「海舟別記」に駿河藩主となった徳川家達が陸路100余名の家臣とともに駿河に陸路移ったとあるそうです(その他の人たちは品川から清水までの海路)。

 当時、成瀬蔵家族の屋敷は江戸小石川(文京区小石川5丁目)で3000坪の敷地。家族郎党をも引き連れての駿河下向はラクでは無かったでしょう。