「請人」とは 斉藤延世 事、科野東一郎

本日もあの借用書について記します。

書面「請人」としてある「斉藤延世」という人について。

 石坂周造は借金をするにあたりこの書面を記すに「手が痛い」=「筆が持てない」ことを理由に代書を「永井次郎」という人に依頼したことが判ります。ということからこの人を除いた借主の周造の責任に於いて借金が為され請人・証人の二名がこれを担保したということになりますね。

念のため、「請人と証人」についてひいてみますとこんな感じ・・・

 

★うけにん【請人】

 中世・近世における種々の契約の保証人。古代の保証人は,律令に債務者の逃亡に際して代償責任を負う〈保人〉の規定があったが,《令義解》では債務者の死亡も含むものと拡大解釈している。また《正倉院文書》の中にみられる貸借文書には,一般的に債務者が債務不履行の場合に代償責任を負う保証人として〈償人〉がみられる。このほか売買貸借の取引の周旋・媒介を業とする口入人(くにゆうにん)が,保人・償人と同様の代償責任を負う場合もあった。

 

★しょうにん【証人 】

江戸時代の金銭債務および明治初年の金穀債務における保証人を意味した語。奈良時代以来保証人には,債務者が逃亡しないことを保証し,逃亡もしくは死亡の場合に代償する〈保人〉系統のものと,債務者が債務を弁済しない場合に債務者に代わって弁償する〈償人〉系統のものとの2種類があった。江戸時代の証人は,初めは当然に償人的義務を負い,ただ債務証書に,債務者が死亡もしくは失踪した場合につき,証人が責任を負うとの文言(死失文言)が記されている場合に限り,保人的義務を負うものとされた。

 

 この時期に「請人と証人」とわざわざ呼び名を変えて記す理由は判りませんが、要は「保証人」のことですね。

敢えて記させていただければ保証の範囲―責任発生の時期―が限定されていて「請人」とは債務者の「債務不履行が起こった時」であり、「証人」とは債務者が「死亡もしくは失踪した時」のようです。

ということは「請人」の方が一層の重大責任を負ったことになります。借用書の順位も先に「請人」が来ていることから、責任度は高かったかと思います。

 まぁ保証人を二名記すことによってこの債権証書の信頼性と担保力をあげ、貸人である布施新助の信用を得るためには欠かすことのできない人だったのでしょう。

 

「斉藤延世」この人については、資料が少なくて詳細を掴むことは勉強不足、なぜ相良に居て、石坂の借用書を担保する大役としてその書面にその名があるのか難しいのですが、あの「赤報隊」のメンバーに名を連ねていました。~「幕末写真館」というサイトには彼の画像があります。

 斉藤延世は別名、科野東一郎(しなのとういちろう)。

やはり相良油田を管理した「薩摩系」のバックが推測できるところです。

 

「赤報隊」という語は、数年前に耳にしたことのある反社会的勢力が名乗っていたものとは違います。マスコミを襲撃したり鉄砲の弾を送りつけたりの相当軽々しいイメージを植え付けてしまいました。

しかし、こちらは元祖「赤報隊」です。

 

 「赤報隊事件」は一時、明治政府によって封印された不合理無茶苦茶な事件でいわば新政府(官軍)にとっては表に出したくない事でしたね。

各々ググっていただければお判りになりましょうが、要は官軍の先鋒~当初の対幕府騒乱、「攘夷討幕」の先鋭部隊~として組織され、官軍としての先鋒、戦働きをして東上しましたが、あの政府と約束を取り付けていたスローガン~「税金を半額にする」~を反故にするために岩倉具視他薩長グループが、あとになってから「彼らはニセ官軍」であるので討伐すべしと抹殺(リセット)を計った事件です。

「散々に利用され都合が悪くなるとポイ」という「使い捨て」をされた人は「国を思う」という意で攘夷―討幕に走った若者たちですが、国民の税負担を半分にして、ラクをさせてあげたいという国というか国民に対する思いです。

その気持ちは純粋で心意気は傾倒いたします。それをこの辺りから「国を思う」が国家としての威信のようなものになって、為政者の利己的な詭弁と変化していった歴史が隠れています。

 

 赤報隊のメンバーは殆どが捕縛されて斬首というむごい殺され方をしますが、この斉藤延世という人はそれらの中の生き残りです。

 

また、「薩摩系」を推察するのはそもそも彼は薩摩出身では無いものの当初江戸市中攪乱のために江戸薩摩藩邸に集結したのがこの「赤報隊」だったからです。

斉藤延世(科野東一郎)は岩倉の二枚舌を糺そうと岩倉暗殺を試みますが失敗し、その後自由の身になったようです。

 

 先日、海江田信義の大村益次郎暗殺の件も記しましたがこの人もその下手人の候補かも知れません。

その後の彼の消息については今の所判っていません。尚、代筆者「永井次郎」の詳細もまったく不明。

ただし「永井」という名を見てつい推測してしまうのは永井玄蕃頭ですね。竜馬暗殺にも関わった説もありますが彼の役職名「玄蕃頭」の前任は相良藩「田沼意尊」でしたし長崎海軍伝習所総監時代に勝海舟らとも顔見知りです。

幕府軍として戦い敗北するも、明治政府に出仕しています。

その人に関わる子息等が秘書としていたことを考えてしまいます。まったくこれは推測の域。

 三舟ほかあれだけの著名人が集合していたあの頃の相良、こじつけもなかなか信憑性があるかも知れません。