相良油田試掘会 飛び入り見学

三重からのお客様(三重大学工学部御一行)に合わせて現在も生きている井戸二つのうちの一つ~これは油田の里公園の丘の上~で採油実演があるという情報がありましたので、書生さんたちに混じって見学してきました(場所はこのあたり)。

 相良という地は明治初期のドサクサ期にこの油井発見の知らせから幕末の志士等から政府系、資本家はもとより全国から山師から海千山千の者たちが集まりました。

幕府15代将軍慶喜の駿府入りに合わせて静岡に集まった(勤番組・・)ものの徐々に解散の方向に向かってしまい、路頭に迷った武士階級も多かったと思います(→ウィキペディア)。

 

 現代では信じられないと思いますが当時、石油産出地として相良の名が全国区に躍り出たのは老中田沼意次以来ということもあり、それも東海道、太平洋岸での石油産出地としての名のりであって、その将来に渡って日本の石油産業・化学工業を牽引するような大発見であると地元は勿論日本中から期待されたものです。

最盛期(明治17)には原油生産ドラム缶約3,600本(721.6kl 金額で40000円)が産出され、油井240坑、従業員600人に及んだと言われています。

当時、石油の金額は米の7~10倍という説明もありました。

幕末時「一両1円」説を採用し1円=現レート最低一両6万円で計算すれば24億円。一両10万円だと40億円。当時のインフレ率を勘案するともっと凄い数字にもなるかも。

 昭和30年頃まで産出していましたが結局は産油量とコストの限界を見て谷あいにあった井戸と付属の小屋は撤去、現在はイチジク畑等になっています。谷あいには1本のみ井戸が残されています。

産出された油の質は、きわめて良質、精製のいらない―直接ガソリンエンジンが動いてしまうほどの―世界的に見ても珍しいものです。色は琥珀色で、真っ黒なタール分が際立つ「原油」のイメージとはまったく違います。まるで洋酒のようです。

引火燃焼実演もありました。

 

画像③が昨日の小屋と同等のもので④が内部から見た明かり窓。

その真下に井戸があります。

⑤が現在の機械掘りの井戸口でスグそこまで油が上っておりガスがブクブクしています。

ライターの火など近づけたら・・・などと思って周囲を見回す始末。

⑥に見える5mくらいのパイプをその穴に差し込み(穴に入れる人と機械を操る人の二人)ストローの原理で吸い出します。

パイプの先端に金具が付いていて油面に触れてパイプが下がり出すとバルブが開き、パイプを上げる時にバルブが閉まるようになっています。パイプで吸い上げたものを隣に据えたドラムに溜めて行きます。

精製は水分の除去(下に沈殿するので底部に付けたバルブを開いて水を出したとのこと)と、フィルター等を通すだけで利用できたというスグレもの。

⑧はこの櫓の近くから当時櫓が林立していた谷の川筋を見たところ。⑨が当時の様子。⑩は大隈重信が当地に来訪した時の様子を描いた図ですが現相良新町の澤田学習塾(当時は酒店)、澤田翰氏が記したものです。

 

実演し資料館館長の紅林氏とかつての油田井戸掘り職人だった田中氏のお二人にお願いしました。

詳細はこちらへどうぞ。

 

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (金曜日, 06 12月 2013 08:44)

    相良油田の油を最初に見たときは精製されたものと思っていました。でも それが相良油田の原油そのものでした。
    琥珀色のきれいな色でした。
    原油の制作過程が他の油田とは違うことが納得できます。
    大江にある油井でも油のにおいがぷーんとします。
    (こちらは藪の中にありますが行ったことがありますか?)
    もっと観光に役立てばいいけど・・・
    牧之原市はPRがヘタですね。

  • #2

    今井一光 (金曜日, 06 12月 2013 21:41)

    ありがとうございます。
    当初の相良油田発祥の地、海老江の油井のことでしょうか。
    そちらはまだ拝見したことがありません。

     残りの石油があるとしても僅かでしょうがそれでも現在の技術があればまだ採油も案外続けられそうな気がしますが・・・。
    「相良石油採掘特区」のような形で国の方で採掘を許可してくれれば市でも手掛けられそうに思います。
    これは石油類に関する課税がややこしくしているのですね。
    手続き上、出てきた鉱油を売ったり使用したりできないのでした。
    脱税になってしまいますし課税されればコストに跳ね返ります。
    天からの授かりものなのに使えないのは何とも悩ましいところです。