さあ、報恩講過ぎれば冬籠りの用意

あてが外れたのは殆ど一日中、雨が粘ってやまなかった事。

朝方の強い降りではないものの思い出したように降り出す雨粒に終始イラっとさせられました。

 気温もさほど上がらずにこの季節になって初めて長袖のツナギに。じたばたしましたが、できなかったことは本日午前にやっつけようと思います。自分に妥協しっ放しですね。

どうにもならない痛切な点は各所で発生している突発的な事案です。それらに向かうためにお手伝いや楽市に出席が難しくなったという連絡が数件入っています。

この週末、当地の葬儀式場の空きは無いくらい「混雑」しているとのこと。

坊守も昨日は「土人衆」として通夜斎場のお手伝いに行っていましたが、この季節の変わり目はやはり暑い夏の疲労の蓄積が出現してくる頃なのでしょうか。

 

 「土人衆」とはこの地にいれば誰でも知っている言葉ですが、果たしてこの言語彙、全国区に通じるものか不明ですので付け加えて一言で記せば、「近所の人」ということでしょうか。

葬儀や火事など当事者の家では、にっちもさっちもいかないような事案に近所の人たちが手を差し伸べるという寄合です。

その寄合は「組」といいますが所謂「回覧板が廻るエリア」ですね。ちなみに「葬儀と火事」を二分。あとの八つが婚姻・出産・疾病・水害等々のおつきあい、手伝い、ヘルプの類ですね。

 差別用語「村八分」という言葉も私が中3の時こちらに来て初めて耳にした言葉ですが、元は「葬儀と火事」以外の付き合いを拒絶するという集団絶交宣言~「八分」(最も重要な二つの事柄を除いて)~だったわけです。まあ、こういった「伝統」が日本の歴史の中に生きつづけて昭和の後半になっても公然と大人たちがやっていたことですから、今の子供たちが学校でその手のイジメをやらかしてしまうベースになっていたと言っても過言ではないでしょう。

 

 「葬儀と火事」は放っておけば周囲も大変な事になるので例外として手を貸すのが常でした。

ということからこの葬儀の際の「土人衆」とはおそらく墓を掘る・遺体を運ぶ・燃料を集める等からきているのかと思います。また、現代では差別用語として通常使うことはありませんが(実際は年配者で知らない人はいません)、「隠亡焼き」(おんぼやき)と云われる火葬専門担当者が山に居残り一晩中薪と火の調整をしたそうです。

当時は火葬は一定の財力が無ければできなかったでしょう。

身元不明者(行路不明人・旅の者)は穴を掘って陣台山の墓地に即埋葬した話も残っていますので。明治に入って頻発したコレラ等の流行り病で没した人も火葬は人の手と時間を要してしまうため地中深く埋められました。

 

画像は一昨日のもの。ハイビスカスまで元気に咲いて勿論半袖シャツ1枚でした。

障子の無い本堂とその後、真っ白の障子が光る本堂正面。

④⑤が新調した門前看板の柱と板。⑥が完成。新調といっても板の部分は本堂の濡れ縁のリサイクル。楠木の1枚板。

これより一回り大きい物は駐車場に立てる予定です。

処分せずに取っておいてよかった・・・