敗者の歴史はとても曖昧に 勝間田家乳母

勝間田家由来の「カツマタ」はその字や読みを微妙に変化させて各地に残っていますが、当地の歴史から姿を消した時期についてはやはり今川方の資料を参考にする他は無いでしょう。

 家としての存続が滅んでしまうということは、その家に残る伝承は有形無形を問わず勝者の管理(略奪)となり、有価値無価値の選別眼によって不要と判断されたものは消え去る運命にあります。

勝間田・横地を滅ぼした今川家ですが、義元亡きあと氏真の時代になって武田勢に駿府の館を追われました。戦国の倣いですね。

その場で今川家が滅亡しているわけで無いにもかかわらず、未だその城館の位置が確定できていないくらいです。

武田側は略奪の汚名を避けて、すべてのものを焼き払ったと聞きますし、おそらく家康による駿府の城普請も武田方が退去したあとのただの焼け野原に何の考えも無く行われたのでしょうね。

 

 戦いに負けるということは極論「滅びる」ということであり滅びるということはこれまで築き上げたものが全て灰燼に帰すということになったわけです。

戦った相手が強くて手強かったりすれば滅ぼされた後に、さらに根も葉もない醜聞や作り物語を流布され、亡くなったのちにまで貶められるということは良くある話です。

 

さて、ここ勝間田氏の終末期に関わる確定的な情報は無いというのが現状で、やはりここでは勝者今川義忠方の資料から推定する他はありません。

義忠が塩買い坂で討死したのが文明八年二月(1476)41歳です。

これが勝間田・横地の両城討伐成功の帰り途でした。

勝間田城の攻略が先と考えるのが普通ですから、~横地を先に攻めることは挟み撃ちにあい退路を塞ぐという理由から無かったとは思いますが今川義忠は掛川古城(またはこちら)を朝比奈氏に築城させ菊川方面の抑えとしていますので「どちらが先か」は判然としません~だいたいのところ勝間田城陥落は1475年の夏から後半の戦いの中でのことと考えます。

 

 戦略上、戦争を始めるに相手方領地の田畑の収穫期を軍の兵糧としてあてにすることも大いにあり得ますので、時期的にはそんなところが正解でしょうか。

 ただし、今川勢が取った戦略は後の世に出てくる信長や秀吉の「なで斬り」という一族郎党完膚なきまでに消滅させるというような残虐性は無かったようで、その後も両族残党が再興を試みて~今川家としても御屋形様が討ち取られて泥沼のお家騒動に発展しつつある時でしたので~土地に残り散発的にしろ今川家に抵抗していたこともあって、両族の正確な遠州からの消滅時期はハッキリしないところです。

 

 かつてそう昔では無い頃、旧榛原町、龍眼山城の西側の麓の道路際に老松の大木が立っていました。

仁田の交差点から50mほど海側です(場所はここ)。

 道路拡張と法面整備の理由から枝払いをされたあとに立ち枯れしてしまい現在松はありません。

松は大きくて立派に育って巨大化しますが、人間が手を入れることによって枯れてしまうことはよくある話です。

 小さな祠が建てられて中には日蓮宗系の仏像らしきものがいらっしゃいます。以前はしっかりとした看板が立っていてこの松の木の由来が記されており、縁日には周辺住民に僧侶まで集まって簡単ながら法要がとり行われていたとのこと。

だんだんと看板の更新はされずに人々から忘れ去られようとしているのかな、と思っているところです。

 

この松は古くからこの地では「乳母松」(うばがまつ)と呼ばれていました。

勝間田城内の子供たちを見るある乳母が落城間際に姫や子供たちを連れて勝間田川沿いに海の方向へ逃げる中、持病の悪化からこの地で息絶えたという言い伝えです。

その亡骸の上に松を植えたそうです。

 姫様のうち近くの池に身を投げたという場所も残っているようですが、その乳母の適切な誘導のおかげで多くの者が助かったという御礼の姿勢を後世になって華を手向ける場所を建てることによって表したものと考えます。

これも東西山の戦場に双方軍縁者がほとぼりの冷めた頃合いを見てやって来て、首なし遺体を弔い墓碑を建碑したのと同様です。

 

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コメント: 45
  • #1

    勝間田信一 (月曜日, 11 8月 2014 02:49)

    当時の先祖の人達の事を更に詳しく知りたいです。
    今は御殿場の地区に勝間田家が多くいます。

  • #2

    今井一光 (月曜日, 11 8月 2014 08:01)

    ありがとうございます。
    勝間田氏については、その資料の僅少さから、詳細は判然とせず、わからないところがたくさんあります。
    唯一かつての御当家繁栄の遺構のある牧之原は市の財産として調査と整備を行い、将来に渡って検証を続けようとする姿勢はある程度示していますが、遅遅としており、その現場作業も思うように進まず、私たち「知りたい」市民の気持ちをやきもきさせています。
    「過去のことより今」的思考にウェイトのかかる現代にあって地元であってもそのようなものです。

    しかしながら当地は勝間田氏や勝間田城の資料に関して地元であるが故、他所より見聞する機会があります。
    今後も、私が知り得たことを適宜記させていただきます。

  • #3

    勝間田美智代 (土曜日, 23 4月 2016 23:01)

    旧姓が勝間田で、御殿場に実家を持っています。勝間田家には古くか言い伝えられている事がありまして、今でも守られている事が有ります。それは、「暮れに餅をつくと赤く染まる」と云われ、年が明けてからお餅をついたり…と、落ち延びている時代に息を潜めて生活していた名残なのかもしれません。その当時は昼に煮炊きもしなかったと聞いています。
    様々な言い伝えが今も尚、残っているのです。

  • #4

    今井一光 (日曜日, 24 4月 2016 15:56)

    ありがとうございます。
    凄い伝承が残っていますね。興味深くまた、驚かされました。
    きっとご当家のご先祖様は今川家が駿河から一掃されるまでの100年以上の間
    代々に渡って忍ぶが如くの生活を送っていたのですね。
    100年もの間、質素で目立たないような生活を送り続けていれば、それこそそれが
    正当な生活と化して「家の在り方」として当たり前のことと固まっていったのでしょぅ。これまでのその生活感が絶えることなく、伝わっているということは奇特なことと思えます。

  • #5

    洋子 (木曜日, 01 3月 2018 21:07)

    祖母の旧姓がカツマタと言います。
    祖母から聞いた印象深い話しですが、「定勝寺は、先祖が闘いに敗れ出家した際に開いた寺で、定勝寺の名前はカツマタに由来する。長野県で3本の指に入る寺だ」
    「カツマタは、城持ちだったが、息子が3人いて3人とも討ち死にをしたので城を家来に譲り出家した」と祖母は話していました。
    祖母の実家にはカツマタの家系が記された巻物があり、火事など万が一のときはまずこの巻物の家系図を持ち出すように番頭にいつも話していたということです。
    祖母のカツマタの本祖は源氏だとも聞きました。子供の当時に源氏の下の名前も聞いたのですが忘れてしまいました。
    不思議でならないのは、「早稲田大学を出た長男(祖母の弟)を長野県から静岡県の寺へ養子にやった」ということです。たった一人の男子だったので祖母の実家は女子が婿を取って後を継ぎました。私の父は子供のころ、静岡のこの叔父のところに祖母に連れられて行ったことがあると話していました。
    そんなに遠くに養子に出したのは、暗にカツマタの血筋を守るためだったのでしょうか?静岡が総本家だということでしょうか?
    勝間田氏は落ち延びている間に寺を隠れ蓑にしていたという可能性はあり得ませんか?

  • #6

    今井一光 (金曜日, 02 3月 2018 20:02)

    ありがとうございます。
    各件、とても興味深いお話ですね。
    勝間田氏が各地に離散するにあたり、特に箱根周辺に定住してしばらくの間雌伏の苦渋を飲んだ事は推測できるところです。
    信州にもその系の流れがあったことは当地で行われる勝間田家の供養祭への「子孫」といわれる方の登場により歴史上の遠州と信州のパイプというものを感じたものでした。
    中でも勝間田家の「巻物」の中身について興味があります。
    家系図というものは後世の改変追記がつきものですのでその信憑性については疑ってかかるべきものですが、時代・経緯・矛盾有無について各方向からの検証をすべきと存じます。

    定勝寺の由来が勝間田にあるという件も面白いと思いました。
    現在のお寺の宗旨は臨済宗で、時宗を特に敬愛した勝間田氏ですが「寺に入る」ということは古来より「仏門に入る→世を捨てる」ことでとりあえずは敵対勢力からの追捕は逃れられます。信州は今川領国外であったとしても平穏無事は保障されたものではありませんので寺に入ることは有意義なことだと思います。
    血統を繋げるという意味では厳密な意味で「寺に入る」ことになりませんので外部に対する隠れ蓑とはなったことと思います。

    また「静岡のお寺に」の件、詳細がわかりませんし、プライバシーにかかわることで明白にはできないと思いますが、もともとの御家伝承の思いに「遠州の地へ」の気持ちがあったのかと思われます。

    よろしかったら相良に遊びに来てください。

  • #7

    勝間田 (日曜日, 11 3月 2018 20:34)

    まさか自分の苗字にこんな歴史があったとは!
    自分でも驚きです笑

  • #8

    今井一光 (月曜日, 12 3月 2018 08:48)

    ありがとうございます。
    是非に勝間田氏の栄華のあと、勝間田城址のある牧之原市へお越しください。

  • #9

    勝又健ジ (土曜日, 24 3月 2018 11:23)

    父親の実家の家紋は揚羽蝶でこれを誇りにしています。屋敷内には13枚の菊の墓があったようで父はこれをよく自慢してました。揚羽蝶は平家の家紋のはず。勝間田一族は清和源氏なのにどういうことでしょうか?また御殿場の勝間田さんはお寺を持たないと母親から聞いた記憶があります。勝間田城の再調査、楽しみです。

  • #10

    勝又健ジ (土曜日, 24 3月 2018 11:33)

    東京で知り合った旧姓勝間田さんからの情報では、彼女の先祖は信州で城持ち、武田が滅亡して御殿場にきたと言ってました。信州との関連を示すものではないでしょうか。

  • #11

    今井一光 (日曜日, 25 3月 2018 07:51)

    健ジ様、ありがとうございます。
    「勝間田一族は清和源氏」の件そちらはあくまでも歴史の推測にすぎないかと。
    私の方では勝間田・横地そして井伊まで「藤原南家」というのが頭に刷り込まれてしまっています。
    また歴史の流れの中で平氏出自説も当然のこと。
    滅亡の憂き目にあった勝間田氏の歴史はそこで消されたわけで伝承が複数あるのも致し方ないことですね。存続栄華を誇った徳川家でさえ家康は家系図をいじくりまわして
    出自を源氏に改めていましたね。
    系図・家紋に関して大いにそれを推測するに価値あるものですがご先祖様のどなたかがどこかで変えたということも考えられてしまいます。
    また、勝間田家はその家臣団含め遠州離散のあと、各地で雌伏、今川滅亡ののち「勝間田」
    再興と名家の名を維持したいということで落ちて行った者たち一同が、その勝間田姓を名乗りを挙げた経緯があったとも聞きます。

    信州の勝間田に関しては小生の勉強不足で、恐縮ですが仰るようなことから考えると縁者を頼って御殿場に向かったのでしょうね。
    勝間田氏に関してはわからないことばかりで、各家に伝わる文書や墓そして家紋・家系を調べていけば点と点が結ばれて一大研究となり得ますね。
    またご調査の結果、新たな発見がありましたらご教授ください。

  • #12

    勝又 照 (月曜日, 30 4月 2018 19:03)

    興味深く拝見しました。
    自分は、裾野市出身ですが、子供の頃は同じ学年に「勝又」が数名いました。
    沼津の高校時代になると、御殿場の「勝俣」や沼津の「勝間田」が目立ちました。
    興味深いのは、上記の健ジさんと同じで、家紋が揚羽蝶です!
    なんか、興奮しました。

  • #13

    今井 一光 (月曜日, 30 4月 2018 23:24)

    照 様 ありがとうございます。
    拙ブログにたくさんの「かつまた」様が集まってとてもうれしく思います。
    また情報をお寄せください。

  • #14

    K.S (土曜日, 19 5月 2018 11:54)

    はじめまして。
    勝間田家について、とても興味があります。
    私も御殿場出身で現在はカツマタに近い苗字を名乗っています。祖母の話ではもともと裾野市にあるお寺の分家らしく、御殿場にある実家の周囲もカツマタさんしかいません。
    また、小山町から嫁いできた母の旧姓も勝又でした。
    また勝間田家に関して気になることは、徳川家康の側室で二代目将軍である徳川秀忠の母、西郷局は勝間田家にルーツがあるということも聞いたことがありますが本当なのでしょうか。
    もう1つは勝間田家と信州のつながりに関してです。 大河のドラマの女上城主直虎でも出てきて、井伊直政の父になる直親を信州のお寺に逃し12年間世話した今村藤七郎は、元々勝間田家の人ということも信州と勝間田家のパイプに関係があるのでしょうか。

    長文失礼しました。

  • #15

    今井一光 (土曜日, 19 5月 2018 22:05)

    ありがとうございます。
    確定的ものはなく殆どすべてが推測の域をでていないという御指摘がありましょうが
    やはり基本的には藤原不比等の長男武智麻呂からの流れ(藤原南家)、がキーワードで
    しょうか。

    名のり(勝間田・・・)は状況によってあるいは養子縁組によっても変わっていきますが
    分家であっても「家」の継承は当然であり、特にその消滅に関しては惜しまれるものです。男子複数出生が好まれる時代に家督継承者以外の男子は別姓をなのることはよくあることであり本家継承者が後継者をなしに亡くなるなどの場合、元の姓に戻して家に戻ったり、新地開拓等遠隔地に住まう場合などは地名を名のりにするなどしていても本家が無くなれば元々の名乗りをするなど様々だと思います。

    特に以前から西郷局の父親が「戸塚」であると言われていますが、それに関してはやはり藤原南家出自とも言われています。
    ブログにても勝間田近隣の戸塚地名(2015年5月6日と5月7日)について記していますが
    戸塚氏と勝間田氏は縁戚関係含めて主従の間柄であったことは当地ではよく知られた件で、その戸塚氏が勝間田氏滅亡の際、各地に転じた際その勝間田に復姓したり新たに勝間田の名のりをあげたと言われています。

    井伊家の藤原南家説は小和田先生の説としてもありますが(ブログ2016年11月15日)
    その井伊家に今村家(通説勝間田出自)がその家臣団として組み込まれていることは不思議なことではありません。
    きっとそのような「一族」の誼とそれらネットワークから「近くも遠くもない」信州という地に逃がしたのではないのでしょうか。
    ちなみに当地には勿論「勝間田」は散見されますが「戸塚」と「今村」は結構目立ちます。

    推測のみで申し訳ありません。今後ともよろしくお願いいたします。

  • #16

    勝間田譲二 (火曜日, 26 2月 2019 13:12)

    お正月にお餅を食べることができないので、御厨そばを食べていました。濃い目のしょうゆ味にニンジンや鶏肉が入っていました。懐かしい味です。
    また地区内に光真寺というお寺があり、そのお寺の前に江戸s時代ではないかと思われるご先祖様のお墓がたくさんあります。我が家のお墓ということで、毎年お盆にはお参りしています。

  • #17

    今井一光 (火曜日, 26 2月 2019 20:44)

    ありがとうございます。
    御殿場では御厨そばを正月に食し餅は食べないという風習はきっと先祖伝来の言い伝えが元なのでしょうね。
    餅を食べるにはその仕込みからかなりの手間がかかり取るものも取らずに慌てて逃げてきた者たちの「正月」を意味してそれを代々伝えていくというものでしょうね。
    光真寺というお寺の名称についても今の宗旨は浄土宗のようですが、私の勝手なイメージではありますか時宗の匂いがしてきます。

  • #18

    勝俣義紀 (日曜日, 10 3月 2019 23:45)

    勝間田一族の歴史を興味深く拝見しました。
    私の祖父は富士吉田の出身ですが、そのルーツは御殿場だと聞いてました。
    以前、火野正平さんの番組(日本縦断こころ旅)で牧之原市の勝俣という地名が紹介されていたことから、もしかして、わが家のルーツと関係あるのか?と調べた時に、勝間田一族の歴史と勝間田城の存在を知りました。
    昨年、富士登山の帰りに息子と勝間田城址を散策し、思っていたよりも広大な造りであったことや、その後の流転の歴史に感慨深いものがありました。
    今後も新たな史実が発見されることを期待しております。

  • #19

    今井一光 (月曜日, 11 3月 2019 17:25)

    ありがとうございます。勝間田氏の歴史を紐解くには案外と今「カツマタ」を名のる家々が代々伝えている事象をまとめて行くことが近道になるかも知れませんね。
    このちっぽけなブログにて皆さんが反応くださることからそううかがえます。

  • #20

    勝俣 (木曜日, 14 5月 2020 13:24)

    御殿場が親の実家です。
    初めて知る事ばかりで感動してます。
    今後の更新楽しみにしております。

  • #21

    今井一光 (木曜日, 14 5月 2020 19:51)

    ありがとうごさいます。
    御殿場から箱根といえばまさに「変形」含めて
    その名の地盤ですね。
    各家の細かな情報を集めて点と点を線にそしてその線が他所の線と繋がっている
    様子が判明していけばその流れについてわかりやすくなるのかと思っています。

  • #22

    mt (木曜日, 28 5月 2020 07:22)

    古い家系図を見ていたら曾祖母が山梨市の丸山家出身、丸山家はもともと勝間田家と知りました。名主であったようです。勝間田家や工藤家、藤原家の一族だったのは知らなかったです。

    いつか勝間田城や勝間田家の暮らした土地を訪れてみたいと思います。

  • #23

    今井一光 (木曜日, 28 5月 2020 07:31)

    ありがとうございます。
    きっと古い言い伝えなども残っているのでしょうね。
    関係する古文書なども残っているかも知れません。
    また、勝間田城と勝間田家の墓参に是非にお越しください。

  • #24

    村松 (土曜日, 27 6月 2020)

    勝間田城址のある近くの 切山小学校の頃毎年4月10日 全校生徒 全教員で 勝間田城址の城址祭りをやっていました そこでは勝間田上の言われなど説明され その後 宝さがし 蕨 ゼンマイ取りなどして1日過ごしました
    小学校が廃校になった後は その地域の老人クラブでやっていたようです
    周辺の地名に 戦場となった名残の  旗沢はたざわ 大旗おおばた 駒沢こばざわ などの小字 の地名がありました 
    その地名に 姫池ひめいけ という池があって 敵の雑兵の手にかかって命を失うよりと池に身を投じました その姫の亡霊が池の鰻に乗り移り その池で取れる鰻の唇は赤く誰ともなくその池を姫池というようになりました
    今の城址祭りには御殿場の勝間田姓の来ることがあると聞きました

  • #25

    今井一光 (土曜日, 27 6月 2020 20:15)

    ありがとうございます。
    切山小学校の名を初めて聞いた次第です。
    切山小学校を調べたら
    沿革 
    明治25年 4月 1日 切山小学校分校として開校
    明治33年     切山尋常小学校となる。
    明治35年     勝間田小学校分校となる。 
    昭和32年10月 1日 切山が金谷町に編入され、組合立切山小学校になる。
    昭和42年 3月31日 廃校 在校生44人は金谷小学校へ

    とありました。
    古き良き時代の懐かしさを思う気持ちが伝わってくるようです。
    「旗沢はたざわ 大旗おおばた 駒沢こばざわ などの小字と姫池」の名称について
    今度ゆっくり歩いてみたいと思ったところです。

  • #26

    勝又ヒロユキ (土曜日, 22 8月 2020 18:07)

    大変興味深く読ませていただきました。
    私の姓は勝又で家紋は丸にアゲハチョウです。
    現在は海外在住ですが、実家は御殿場の中でも特に「勝又」が多い地域です。
    学生の頃、自分の姓の由来が気になり、図書館で必死になって調べたことがありますが、当時は「勝間田家」には行き着かず、「カツマタ」姓の一族は藤原南家の家臣であったために源氏や平氏などの世話係のような家であったのではないかと、自分の中で納得していました。
    なぜなら、我が家のお墓がある墓地にはたくさんの勝又と勝間田のお墓がありますが、例外なく、勝又は丸にアゲハチョウ、勝間田は笹竜胆の家紋がついています。
    古い家が多地域で、平氏と源氏の家紋が入り混じっているのは戦乱の中でもその影響が少なかったということかと考えていました。
    ただ、「御殿場の伝説」という本で字名の由来などが語られていますが、源義経が猪狩りを行った鍋有沢や、敵将の首を川沿いに並べた人首沢など源氏、徳川家などの戦の勝者に関する伝説がメインです。

    お寺が消失し、最古までは追えませんが、分かっているだけで私が13代目とのこと。
    お墓は残っているのですが、本格的な調査は依頼したことがありません。

    本帰国で日本に戻った際は、もっと詳しく調べてみたいと思います。

    長文失礼いたしました。

  • #27

    今井一光 (土曜日, 22 8月 2020 22:11)

    ありがとうございます。
    拙いブログですがありがとうございます。
    是非に勝間田城においでください。
    大分整備も進んでいるようです。

  • #28

    伊勢の勝又 (水曜日, 10 2月 2021 16:31)

    現在、三重県伊勢市在住ではありますが、本家は三重県鳥羽市小浜町に御座います。幼少期に父に聞いた話によると、小浜の勝又家は10代目であり、祖先の出生は静岡県の榛原、又祖先は海賊であったとのことでした。
    当時、海賊であったとの言葉には、ショックを受けたものでした。家紋は丸に酢漿です。私も今は五十路、小浜水軍との関連性もあるや無しやと考えている次第で御座います。

  • #29

    今井一光 (水曜日, 10 2月 2021 20:27)

    ありがとうございます。
    鳥羽の勝又さんの存在に驚かされました。
    当地勝間田氏からの御縁を深く推測するところですが、伊勢に流浪した流れがあったということですね。
    「海賊」と言っても水運を生業としたグループ・・・海族・・・をそう呼びますので即、海の略奪者というわけではないと思います。
    気象海象を熟知した集団を組織しようと各勢力は水軍として重宝に使った歴史がありますね。ショックを受けるどころか胸を張るべきご先祖様です。

  • #30

    勝俣 (日曜日, 10 4月 2022 00:10)

    初めまして。私は旧姓勝俣、山梨県富士吉田市におり勝俣の本家です。落城の後、長男と四男が三年から4年ほどの時間をかけ逃げてきたのが山梨県山中湖村平野です。
    そこからさらに居住として見つけた地域が、富士吉田市。
    長男が最後まで過ごしたのが山梨富士吉田です。四男は生活が整った後、記憶では三年ほど富士吉田で過ごし、富士山が次に見える場所を探し独立。
    それが箱根であり、いわゆる箱根の勝俣一族です。
    残った長男はと言うと今川が負傷し、その時まだ身分を隠していた長男が救助したことにより、後に身分復活、勝俣の姓を名乗る事ができました。その際に刀を2本授かり現在では山梨県立美術館にあります。
    毎年、勝俣神社があり小さなものですが神社格もあり
    毎年勝俣一族でお祭りをし、鉄砲と白い鳩で感謝を示しております。
    地元の浄土宗の寺院がありますが、これは勝俣復権の際に今川からの協力を得て建立、それを示す資料なども残されています。

    非常に歴史あふれる勝俣、誇りに思っております。
    個人的には牧之原の歴史にも触れた上で現在の城跡を当時買い取ってくださった村松一族に感謝しており、落城の時に勝又 と姓を変え残族として敵の仇討ちをしてくださった一族にも心を寄せております。
    カツマタとは、またの漢字一文字に歴史と意味があります。
    どうか皆様も誇りを持って!
    カツマタは強い!

  • #31

    今井一光 (日曜日, 10 4月 2022 21:23)

    ありがとうございます。
    勝俣家ご本家のお便り、感謝いたします。
    「カツマタ」情報の多くに感動し、つい本日は午後から勝間田公園を散策に
    上がったほどです。
    ピンク色に輝くミツバツツジに会いに行きました。
    今後ともよろしくお願いいたします。

  • #32

    K.S (水曜日, 13 7月 2022 18:10)

    勝間田の本家について記します。私の母型の親族は勝俣性で、長野県上田市がその出身となります。現在の直系一族は東京に在住されていますが、こちらも勝俣、というよりも勝間田郷領主の血統でであると聞き及んでおり家系図も現存するようです。勝間田の源流は足利源氏であり、江戸時代の高家である吉良氏と同族にして、今川氏以上の家格を有していたものの、滅亡により最終的により領主の血統は最終的には上田の地に落ち着いたと聞いております。江戸時代においては城主の典医を代々務め、明治以降は代々医師かつ政治家の家として上田市第二代市長勝俣栄吉郎(旧殿様が初代ですぐに東京に集められたため実質的な初代)、長野県医師会長、衆議院議員等を務めた勝俣稔等がその一族として挙げられます。直系の家系も長年の歴史の中で多岐に分岐したと思われ、本家がどこであるかとの主張を特にするものではありませんが、ご興味を持たれる方々に上田にもその足跡が残されていることを共有する次第です。

  • #33

    今井一光 (水曜日, 13 7月 2022 19:40)

    ありがとうございます。
    勝間田一統のうち信州上田へ逃れた一流があったことは納得できますね。むしろ同じ駿河の富士や西相模へ新天地を求めたグループより安寧度が高かったかと思われます。
    今川や同盟時の北条から追討を受ける可能性がありましたから当時からよほど息を潜めて暮らしていたのでしょう。
    信州上田での繁栄はその名のりが当初よりネガティブイメージとしてなかったからでしょうか。
    いずれにしろ、東京に出てしまうということは残念なことです。

  • #34

    K.S (水曜日, 13 7月 2022 21:08)

    お返事に感謝致します。また、誤字脱字失礼しました(勝俣栄吉郎は英吉郎の誤りにつき訂正いたします)。上田は戦国時代、現在駅の南方に位置する塩田平までが北条勢、以北が真田(武田)勢の領域であり、また代々の一族の墓は真田氏縁の大輪寺に現存していることから、北条の追及を逃れてここまで辿り着き土着したと思われます。

  • #35

    今井一光 (木曜日, 14 7月 2022 09:15)

    ありがとうございます。
    以前、時間の限られる中、上田城まで足を伸ばしましたが、上田には未練が残る場所がたくさんあります。
    次回上田にてのんびりとすごし、大輪寺にもお参りしたいと思います。

  • #36

    神別天津神 (金曜日, 11 11月 2022 20:43)

    http://www7b.biglobe.ne.jp/~katumatagorou/index.html
    なかなか面白かったので一度見てみてください。

  • #37

    神別天津神 (金曜日, 11 11月 2022 20:58)

    今川のだけど、ちょこちょこと勝間田・井伊・横地が出てくるので。
    http://senakamikutu.web.fc2.com/index.htm

  • #38

    今井一光 (金曜日, 11 11月 2022 21:04)

    ありがとうございます。
    じっくりと拝見させていただきます。

  • #39

    勝間田 (土曜日, 27 1月 2024 14:10)

    色々なコメントを読み感動しております。

    私は裾野市在住ですが、私の曾祖母が勝間田本家の出身だということで色々調べていたところです。

    勝間田の中にも横道家や新山口?といった派生があるみたいで、私は横道家であることまではわかりました。

    ちなみに家紋は丸に剣片喰というものになり、御殿場の原里印野地区の古い文献をみたところ、祖先の写真があり、着物にはみんな丸に剣片喰の家紋がついていました。

    現在の東富士演習場内において勝間田一族が生活していた様子も、その文献に載っていたことから自分のルーツが少しでも判明したため、少しは前進しましたが、未だ大半の内容はわかりません…

    私の曾祖母もよく、暮れに餅をつくと赤く染まると言っておりました。

  • #40

    今井一光 (土曜日, 27 1月 2024 16:46)

    ありがとうございます。
    たくさんの情報ありがとうございます。また多くが興味深いものばかりで。
    これからもよろしくお願いいたします。

  • #41

    旧姓 勝田 (木曜日, 15 2月 2024 10:54)

    私の祖先は勝間田城の城主だったと聞かされました。今川に破れ 勝田と名前を変えて裾野市に逃げたと。そしてその後、勝田三平という須山の功労者に繋がって 今に至るそうです。
    カツマタという名前が出てきていますが 勝田についても調べて頂きたいのですが……

  • #42

    旧姓 勝田 (木曜日, 15 2月 2024 10:56)

    ⬆️の追伸です。家紋は丸に揚羽蝶です。

  • #43

    今井一光 (木曜日, 15 2月 2024 19:13)

    ありがとうございます。
    本文にも記していますが、勝間田一統の流れの詳細を探求することは至難のことです。
    特に様々な姓に分れた理由は、①当初の今川からの探索を逃れるために落ち逃げた地でほとぼりが冷めるまで姓を名のらず、時間が経過してから名のるにあたって尚、姓の変形を行っていた部分と②勝間田家臣団をルーツに持つ家が、滅亡の憂き目となった主家の姓を名のったこと③明治期に苗字必称義務令にともなって「勝間田」との関連が殆どない名のりなどが増えたのかと思います。
    歴史的史料の少ない中、決定的史料の出現を待つか、勝間田家本流の各家に遺る伝承を体系的に集約するしかないでしょうね。

  • #44

    山口県の勝間田 (水曜日, 27 3月 2024 11:38)

    勝間田姓のルーツを検索しているうちにこちらにたどり着きました。山口県には勝間田姓は少なく、私の実家は山口県周南市の山間部にあり、江戸時代初期から住んでいることが家系図や墓石から分かっています。
    岡山県勝田郡勝央町に勝間田(かつまだ)という地名があり、うちに残っている古文書に『備前国に勝間田左衛門五郎と名乗る人がいて、この人物が勝間田姓の元祖である。』との記述があり、先祖は備前国から来たものと思われますが、いつ頃のことなのかがよく分かっていません。(おそらく室町時代)
    以前、バイクで御殿場市内を通過したことがあるのですが、そのとき色々な看板に勝間田の文字が入っているのを見かけました。私も御殿場周辺に勝間田姓が多いことは知っていたので、その時そのことを改めて実感しました。

  • #45

    今井一光 (木曜日, 28 3月 2024 20:25)

    ありがとうございます。
    また一つルーツの一端を垣間見られることができました。
    古き先達たちの故郷を感じていただければ幸いです。