釘ケ浦を望む勝間田一族の墓 清浄寺

東西山砦は現在は一面お茶畑。地元では「道場の裏山」でも通ります。「道場」といえばだいたい由来の見当は付くというもので、武道鍛錬や仏道修練の場としての意味あいが臭います。

私はその両方を表しているようにも感じます。

 

 お茶(日本茶)が嗜好品の中でも少しだけ贅沢で今より価格が安定的に高留まりしていた頃、遠州に限らず静岡県内では山を切り崩して平坦に開墾し、あるいは少しでも収穫を上げようと少々の傾斜地であっても競って茶の栽培が行われたものです。

 

 当時こちら東西山を開墾中に出てきたのが墓石たちです。

こちらの砦あるいは勝間田城の支城らしき地(宮山城とも)はおそらく現在、「これから開墾して茶畑を作る」などと言い出したとしたらまず県より文化財保護の観点から工事ストップの指示が出るような場所でしょう。

 

何故ならばこの地が勝間田一族と今川義忠の決戦地であった場所と推測されているからです。

勝間田城最前線で防御の要と見て迎え撃つようにこの山頂の砦に布陣し、今川軍が本陣勝間田城を窺えば背後から挟撃することをも想定、現在も山の麓では山からの水が豊富に湧き出るほどで水の手は十分ですので、籠城戦には持って来いの場所でした。

結局は勝間田家、この東西山の釘ケ裏を望む地を枕に討死あるいは四散したのですが、今川義忠勢は屈強で同族の横地氏一族も同様、勝間田一族ともども遠州の地を追われることになったわけです。

 

 この勝間田・横地の討伐合戦、戦勝の帰り道に今川義忠は皮肉にも一矢を受けて絶命(塩買坂)、まわりまわって北条早雲台頭のきっかけになったことは以前、記させていただいています。

 

 この山の麓には勝間田家代々の菩提寺の雲海山 清浄寺さんがあります。

勿論、時宗のお寺であることは本山遊行寺の正式名称「清浄光寺」のその名から連想されます。

 

 横地城の麓に三光寺という寺の廃寺跡がありますがこの寺もおそらく時宗であったことが推測されますね。

横地・勝間田両家とも遠江守護斯波氏との関係は勿論、中央との交流と国人在地領主としての成長があったことを想像できます。

 

 茶畑開墾中に出てきた墓石たちはこちら清浄寺裏山の鬱蒼とした林の中の石垣の上に並べられていましたが、その後現在の場所の立派な覆堂(ふくどう)に納まっています。

私が東西山城と記した宮山城の宮とはおそらく熊野神社のことを示唆しているのでしょう。墓石の並べられていた石垣からすぐ上方にお宮はあります。

 

勝間田一統の墓は牧之原市では随一ですね。

基本的に五輪塔ですが、お馴染みパーツ取りで無理矢理重ねたという感も否めませんが、宝篋印塔の部材も含まれ袋井の某研究員に言わせれば相当「風雅」であるようなことを仰っておりました。五輪塔の五輪が乗るベース部分、宝篋印塔の返花座(かえりばなざ)にあたる波型文様の彫りについてのことですね。

 

 墓地が建つ場所も最高のロケーション、150号線勝間田川西側を上がっていけばスグです。

横地太郎の宝篋印塔と比べてみてください。

私としてはどちらも優劣はつけられないところです。

 

画像⑨が清浄寺さん上方に墓地があった頃の土台石垣。

⑩が熊野神社。これらから更に上に上れば東西山の茶畑です。ストレスなく散策できますから天気の良い日にはどうぞ。

農家の方がいらしたら一声挨拶すれば尚可でしょう。

 

 

 

 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (土曜日, 02 11月 2013 08:49)

    清浄寺には年1,2回仕事で伺います。
    辻岡先生は、私が小学校の役員をしたときのPTA担当の
    先生でした。
    今でも先生の姿を見ると懐かしく思い出されます。
    足が悪いようですが、そのほかは元気なようです。
    仕事で行ってもお寺の庫裏で話をして帰ってくるので
    じっくり境内を見たことがありません。
    今度じっくりと拝見させてもらいます。

  • #2

    今井一光 (土曜日, 02 11月 2013 16:02)

    ありがとうございます。
    晴れて空気が澄んだ午前中、お墓参りしてスグ裏の林道に出て茶畑に上れば素晴らしい景色を楽しむことができます。
    聞くところによると早朝夜明け頃この山の端ギリギリに雁や鴨が海から山に向かって「くの字」の群れになって飛ぶそうです。その風景も中々見物だとのこと。
    こちらは西方浄土の日没よりも東方の富士と日出を楽しむ場所です。