勝間田川河口東岸は雑賀衆の町

景色のいい東西山から見た釘ケ浦と「川崎の町」について昨日紹介した画像から今一度考察してみます。

「川崎」と記したのは旧榛原町内の静波、細江、仁田、勝俣、道場当たりの街区を統合して「川崎町」と称していた頃がありました。私の祖父など、榛原町のことはまず「川崎」と呼んでいましたね。

 

 今でもここいら辺りで「川崎」と言えばこちらのこと。

「川崎小学校」などその名を使っていますね。

「横須賀」と言えば旧大東町(掛川)のこと、そして「大磯」といえば東西山の西隣です。

勝俣には「藤沢」という地(場所はここ)も「戸塚」(戸塚坂)という名も見られます。

 ここで「横須賀」の列挙はお遊び、つい筆が走ってしまいましたが、他の神奈川県内のものと同じ地名は関連があることは、ご年配の方ならば御存知だと思います。

 

 そのあたりの事情は明日改めて記させていただくとして、画像の説明をさせていただきます。

いかにこちらの東西山が防衛上都合が良い場所であったかを昨日記しましたが①の勝間田川の流れは恰も堀の如く東西山の下を流れていたそうで、画像内左側のオレンジ色の建物のある場所はかつて勝間田川を起点とした湊があった場所といわれています。

 戦国期今川が武田に一掃されて武田対徳川となった時代には武田軍はこちらからの兵糧陸揚げを行って、龍眼山砦はじめ海岸線各砦群へ補給を行ったことが推測できます。

 

 その勝間田川の東岸地区は昔から「雑賀町」と呼ばれています。

この名は地元の方ならば大抵が知っている名ですが、元は西からの敵を警戒して勝間田川を堀に見立てて街区を作り、移住した紀伊門徒雑賀衆の町だったと云われています。

 当山大澤寺の開祖ほか門徒衆は紀伊雑賀で信長軍と戦ったのち本能寺の変直後に遠江に下向して定住しましたが、こちら明照寺御門徒衆一部の雑賀衆は秀吉の時代になってから紀伊雑賀を捨ててこちらの地に移ったという歴史があります。

 時間的に少しの差はありますが、信長・秀吉の政策から逃げるようにして遠江に来たという点では同じです。

②の中心に見えるお寺が明照寺様。