西蔵寺墓石群 揖斐川町春日

教如上人が27人の屈強な男たちに匿われてやり過ごした三成一派は東軍勝利の報が伝えられたのか四散。

上人は目出度く琵琶湖経由で京都に戻ります。

 関ヶ原の2年後、東西本願寺分立、「東本願寺」という形ではあったものの親鸞聖人からの法灯を護るべく、はれて法主として継承することができました。

 

 上人は此の地での人々から受けた御恩を忘れず1606年に再び春日の地を踏んでいます。

西蔵寺にも逗留して、境内にあった池に映る自身の姿を描いて当地に遺したそうです。

今でもその現物と模写を当地の御門徒の寺々で掲げて法要が行われているとのこと。

 

 池のお話でもと思い、訪問して声をおかけしましたが、あいにくお寺の方々は御留守でした。

 

鐘撞堂の下に相当古そうなお墓たち。

お馴染み五輪塔と宝篋印塔です。

少なくとも室町期はいっていると思いますが宝篋印塔は鎌倉期の雰囲気が漂います。

お墓の解説も資料もありませんのでどなたのお墓かは判りません。

 

門徒寺に五輪塔と宝篋印塔は通常は使用しません。

しかしブログでも記させていただいています通り全国の古い門徒寺のルーツは天台か真言の寺です。

8代蓮如さんが近江からこの辺りの寺を悉く門徒寺にしてしまいました。

古来から国見峠を通る教如岩のある古道は琵琶湖湖北との往来はあったとのことですが(琵琶湖の海産物と蚕等、山の幸の交流?)、道が続く琵琶湖湖北長浜周辺は超高確率で真宗門徒の寺になっています。

 南都北嶺、特に比叡山関係者が怒り狂うワケです。

 

画像④が国見峠⑤が登ってきた来た道を振り返るとこんな感じ。車ともすれ違いません。