壁に落書きはダメ 耳鼻削がれて磔刑

文禄四年(1595)の秀次事件の前に秀吉はその伏線ともいえる蛮行を行っています。

天正十七年(1589)聚楽第の白壁に夜陰に乗じて落書きを書いた輩がおりました。

勿論、秀吉への誹謗中傷でしょう。

当時誰がどう見ても秀吉の本能寺以降の、結果的とはいえ主君織田家への背信の如くの立ち居振る舞い、病的ともいえる自己顕示欲満載、強欲傲慢気質の出現に対して、一部取り巻きを除いては、反感を持ったり何らかの嫌味の一言も思いつかない人はいなかったでしょう。

 

 1592年に洛中で

「末世とは 別にはあらじ 木下の 猿関白を 見るにつけても」「押し付けて いえばいわるる 十楽の 内は一楽も無し」(十楽は聚楽と掛け)等の落首があったそうですし、その聚楽第の落書きのテーマもそのようなところだったのでしょう。

 一説に「大仏の くどくもあれや 鑓かたな くぎかすがいは こだからめぐむ」(刀狩の揶揄と大仏の功徳による茶々懐妊-秀吉の子ではない-)ともう一つは「織田家恩顧佐々成政を切腹に追い込んだのも茶々が幅を利かせているからである」の如くの落首であったと言われていますがこの説は佐々成政が腹を切ったのが天正十六年(1588)秀頼の誕生が文禄二年(1593)ですので佐々の件はまだしも「大仏◎秀吉×」のやんわり秀吉父親否定のものはかなり行き過ぎたお遊びか後の洛中落首の混同でしょう。

 

 さて、その落書きについて知った秀吉の怒りときたら半端無いものでした。

今考えれば落書きくらいで「なんと小さい奴」と思いますがあの狭量な天下人の下した判断とは・・・

聚楽第守備兵17人の鼻耳を削いでの逆さ吊り刑。

これは下手人が特定できなかったことへの警備の問題を問われた腹いせのようなものでしたが、ハッキリ言って無茶苦茶。

 これだけでは腹の虫が納まらなかったのか猿関白は、尾藤次郎右衛門入道道休という犯人を特定してその者が本願寺内に逃げ込み、それを本願寺が匿っているという嫌疑を本願寺に掛けてきました。

 

 当時本願寺の立場は11年に渡る石山合戦のあと這う這うの体であって何とか秀吉に取り入って大坂天満に寺領を確保したところで秀吉のなすがままです。

 道休の妻子はじめその事件に関与したと疑われた者たち六十余名が京都まで引き回されて六条河原で磔にされています。

その難癖によって寺内掟書という誓約書が交わされて、いよいよ本願寺の力は削がれていきました。

これら一連の筋書き、お膳立てを石田三成が行っていたというのが大概の巷の説ですね。

 

尚、「落首」とは今でいう、ネット世界の匿名誹謗中傷「2ちゃんねる」のようなものと言ったら怒られましょう。

こちらはかなりの知的センスを臭わす歌が公共の街道筋、街区の辻、人の集まる河原などに立札を建てて政(まつりごと)、社会を風刺、揶揄した狂歌を記すことを言います。

勿論言論の自由が保障されている時代では到底ありませんので匿名性のみがその風刺お遊びを担保しました。

 

 老体家康が大坂の陣の大義を得て豊臣滅亡の兵をあげるのに大いに喜んだのはこのような落首が洛中で流行ったからだといいます。

 

「御所柿は 独り熟して 落ちにけり 木の下に居て 拾う秀頼」

(天下の御老体家康はそろそろ老衰して黙っていれば自然に亡くなる まるで木の下に居れば天下が手前に転がってくるように) 

木の下は木下、拾うは秀頼の幼名拾丸ですね。

 

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コメント: 4
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 17 9月 2013 08:41)

    うまいねー。
    世の中には頭のいい人がいるもんですね。
    こんな風に世の中を風刺していける人に
    なりたいものです。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 17 9月 2013 20:22)

    ありがとうございます。
    世の中が乱れていても庶民まで知的センスがあり
    忍耐強くまた、より仏教的信心の厚さをも感じられ、人間的に面白みがあったと思います。
    今の都会でみられるようなギスギスした人間関係やその希薄さとは段違いと思います。

  • #3

    名無し (土曜日, 11 8月 2018 15:00)

    秀吉怖い(´・ω・`)

  • #4

    今井一光 (土曜日, 11 8月 2018 18:57)

    ありがとうございます。
    まさにその通りに思います。
    人の秀吉化する傾向も怖いです。