「おほやう・・・一期は過ぐめる」徒然59段

先週金曜の夜間、掛川門徒会主催の田畑正久先生の講演会に向かいました。

外科医兼龍谷大学仏教学の教授です。

私としては2度目のご縁でしたがその日の午後は御前崎病院の鮫島先生とお話する機会もあって偶然にもお医者さんとのお話が重なりました。

共通するお話の内容から私が受けた印象を一言で表せば、「坊さん、もっとやれることあるでしょ?」ってなところでしょうか。

 特に田畑先生は仏教学の立場から、人の一生の最終段階「終末医療の現場」をテーマにしていて、「その時」を挟んでの前後、医者から代わってごく短時間ですが供に故人や家族とすごす坊さんの役割は殊に重大だと仰っています。

逆に医師の力の無力さには常々感じられているということでした。

「老病死をはじめ無常」こそ話を伝えるべきは仏教者であって聞く側も医者では無く仏教者(僧)の話に「ことの本質」を求めていくという考え方を浸透させるべきではないかと「坊さん」の役目の重要性をあらためて説いていました。

本質とは人間の一生を「不幸の完成」で終わらせないためのスタンスということでしょうか。

「老病死」という、この世に生まれた人には「漏れなく」付いてくる厄介なテーマに目を覆って避けたり棚の上に置いたりすること無く「死」をもっと身近に感ずることが大切だとも。

 

 たとえば点滴や胃瘻(いろう)等本人の期待が含まれているか判らない意識不明者への「延命治療」は「命を惨めな終わり方にする」と断じ、「若さや健康」「子孫に迷惑をかけない最期まで自立」という物差しにのみ幸福感を追求し続けている姿では所詮「老病死」の呪縛からは逃れられず、結局は「不幸の完成」(幸福どころか不幸の結末)を為すばかりであるとのこと。

 

 確実にその無常は日々迫られていて逃れられる筈も無い既定の事実ですので、私たちはもっとそれ(死)について語りつくし、理解しようではないかというのです。

そしてまた死を目前に理解した者ほどその生活感は活気に満ちているとのこと。

 極論ですが死刑囚の「1日を精一杯生きる」という姿勢を引き合いに出していましたね。

朝7時から7時30分の間に執行のお迎えがやってくるそうでその世界では一定の時間内のみは、さすがに収監所は静寂に包まれているそうです。

その時間が過ぎればお隣同士でおしゃべりをしたり囲碁将棋を楽しんだりと、とても賑やかしいそうです。

逆に無期懲役者の部屋のある棟はいつでも「お通夜」のように静かだそうです。

 

日本人は神道的思考もあっていたずらに「死」を忌避すべき(縁起の悪い)ことと決めつける傾向がありますね。

日本の病院でキリスト教系の病院はあっても仏教系の病院など無い、病院に神父が歩いていても難なく受け取られるが、坊さんが袈裟を着て歩いたら違和感を抱いてしまう。その点も大いに不思議ではありますね。

これからの病院はもっと坊さんが出てきて患者や介護者のケアにあたってもいいと思いますし、病院も寺も患者も家族もそれが当然であるといった社会を作って行くべきであるとのことでした。現代の医者やケア担当者の仕事こそ旧来日本の僧職が担ってきたことでした。

 

さて、表題の「おほよう・・・一期は過ぐめる」は

 

「おほやう、人を見るに、少し心あるきはは皆、このあらましにてぞ一期は過ぐめる」

                                                徒然草59段より。

 

田畑先生の話を聞いて思い出しました。

 

 「おほよう」とは「大様」、大体とか大抵の意です。

「大概、人間を見ていると、少しでも仏道とか、ある目的を持って生きようという心を持った人は皆、このようなあらましで臨終を迎えてしまう」

 

「このあらまし」とは

『「しばし この事果てて」、「同じくは、かの事沙汰し置きて」、「しかしかの事、人の嘲りやあらん 行末 難なくしたためまうけて」、「年来もあればこそあれ、その事待たん、程あらじ 物騒がしからぬやうに」など思はんには、え去らぬ事のみいとど重なりて、事の尽くる限りもなく、思ひ立つ日もあるべからず』

です。

意は

『「あとしばらくたったら、これが終われば」「どうせ同じことならあっちのことを済ましてから」「いや、しかし他人様に笑われるかも、そうされないよう十分にしっかり準備して」「我が身の経験からしてそう短慮に入るのはちょっと・・・目立つまでも無く慎重に」などと考えていればやり終えないことばかり山積して結局その日はやって来ない』

 

そもそもこの段の先頭の投げかけは、『大事に迫られて何か囚われているものが(雑念=煩悩ともいいます)あり、あなたの本意が遂げられないままでいるなら、いっそのことそれら「全てを捨てるべき」』との強い主張です。

 そんな踏ん切りどうにもつきませんというのが我々の生活感丸出しの感なのですが、兼好法師はこう締めています。

 

『近き火などに逃ぐる人は、「しばし」とや言ふ(「ちょっと待ってから」などと言うワケがない)。

身を助けんとすれば、恥をも顧みず、財をも捨てて遁れ(のがれ)去るぞかし。

 

命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むめるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや。』

 

人の命はその人の都合を待ってくれない。

無常こそ大火や大水の如く凄まじい速さでやってくる。それらからぜったいに逃れられない私たちは「その時」~・・・~を「捨てられない」からといっても捨てざるを得ないでしょうが。

 

坊さんの役割にもっと重大意義を感じて一日一日を大事に生きなくてはなりません。死というものを忌み嫌うが如くウソや詭弁に塗れた美辞麗句で飾るのはいけませんね。

坊さんは、よくある政治屋さんのその場しのぎのリップサービスの如くの言動様は慎むべきことと肝に命じなくては。

結局は自分の首を絞めることにもなるのでしょうね。

 

画像は少しは涼しさを感じるようになった御前崎の様子。   

 

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コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (火曜日, 10 9月 2013 08:49)

    今回は(いつもそうですが)格式高く
    読み解くに大変です。
    それでも読み解けないことの方がたくさんです。
    「おほよう」 いいですね。
    何でも大概です。
    お寺で「死」についての教室を開催するのもいいかも。
    不謹慎かもしれないけど
    必ずあるもの。
    何かの機会にお話を聴きたいものです。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 10 9月 2013)

    ありがとうございます。
    「その時」のことは漠然ではあるにしろ皆さんがご存知で
    それぞれが思うところがありましょう。
    そしてその言葉を耳にすることも忌まわしく思う方が
    「おほやう」だと思います。
    しかしそのことこそ仏道の根本的な思想ですので、「嫌味な奴の憎まれ口」ととられましょうがおりを見てそのこともまた記させてください。