九月第一週の週末は

「終末医療の現場から」(タイトル)へどうぞ。

掛川の真宗寺院グループが企画した講演会です。

講師の田畑先生は大分県在住の外科医兼大学教授(真宗学)です。

 私も数年前に先生のお話を拝聴したことがありますが、たしか「医者と坊さんは似ている」と仰っていました。

単純に、それを耳にした時「オレが医者と? 」とニヤけた事を覚えています。

 職務として考えた場合、坊さんという仕事は「人のその時」以降について活躍するものとつい考えがちになりますが、大概の坊さんというものは「その時」のみに引っ張り出されて所謂人生の戦後処理的な「葬儀式」を執り行うことに際し、何らかの抵抗があるに決まっています。

それは死というものに特化して機械的な流れを演出するプロ化した集団に組み込まれたくない、むしろ生きるための理由を一處に考えたいという一つの気概なのですが、やはり現実は厳しいところがあります。

 要は坊さんも檀家さん皆さんの健康な一生、今ある命のために(死というものにはどうにも刃向えないが)何かしたいという切望なのですが、生憎、社会の方がそういう感覚には無くなっているという感もあります。

社会がそういう受け取り方なら坊さんの方も「まぁいいか」となって葬式仏教の歯車に一枚噛んでしまっている存在からはいつまでも脱却できないでいることも確かではあります。

 

 医師という仕事は「生かす」ということを大前提にしていることは言うまでも無いこと。

生きるという望みが少しでもあるならばとことん注力し、たすけようと努力します。

ところが坊さんの考えは、少々論点が逸れますが「釈迦」以来の「生老病死」(四苦八苦)は必然的であり、極論すれば大前提が「死」なのですね。

そしてその後、往って生まれる場所(往生極楽)まで観念的ですが決まっていて「生」に向かって一所懸命にあたることは間違いないことだけれども、すべての生きものたちが向かうところは「死」であるということは紛れもない事実であることを周知追認していただくことが仏の教えでした。

 

 坊さんは少々ズルくてそれはもう「仕方ない」ことというか人間として生まれて誰もが迎える「その時」についてですので(諦観)、後は淡々と、あてられた時間をいつも通りに淡々とこなしていくだけなのですね。

 

 医師であっても奮闘努力の介護の甲斐無くその時を迎えたら御役御免です。

ところが最近になって医師・坊主双方ともそして患者や家族の側にも「何か足りない」「これでいいのか」という疑問が湧いてきたということです。

 医師も坊さんも今一度「命」に向かってその存在の意義を見つめ直すことはそのことに接する頻度があまりにも多いことから絶対的に必要な考えですが、一般家庭においても「そのこと」は回避できることでもなく必ず迎えて行く人生の一大イベントですので是非とも改めて念頭に入れて頂きたいと思います。

世間様ではそれを大雑把に「終活」、医療の世界では「終末医療」と最近は呼んでいますが、要は「良質な人生の送り方、最終章」と格好よく名づけさせてください。今回、田畑先生に医師の立場で現在の「現場」を語っていただきます。

 

以下パンフより。

 

戦後の物質的な豊かさを追い求める社会全体の中で、医療も「健康で長生き」を追い求め、量的な長さは世界に誇る長さになって、長寿が実現できるようになりました。

 しかし、医療・福祉の現場での高齢者の状況は必ずしも"幸福な老後"とは思われない現状が目につきます。

それは長さを追い求め、人生の質を十分に考慮に入れない医療が展開されてされているからではないでしょうか。

 仏教が教える、人間に生れた意味、生きることの意味、死んでいく物語の中に、人生の質を考える智慧があるように思われます。

 

9月6日(金)

夜7時30分より(会場7時)

掛川市生涯学習センター ホール(場所はここ)

   静岡県掛川市御所原170537-24-7777

 

入場無料