田舎(自然)がイイで「おじゃる」

先頃、自前の「美濃尾張(身の終わり)ツアー」にて、某所山間部の真宗寺院を訪ねる機会がありました。

私が目的をもって訪問する時は大抵がアポなし。

まぁ大した用事があってのことでは無いのでわざわざ「行きます」とは事前に申すことはありませんので、空振りも多いですね。

 

 やはり今回も住職ご不在、御本尊にご挨拶をと探しても庫裏のみで本堂らしき建物は見当たらず。

わからなかったら「人に聞く」という単純な発想が私のパターンではあるものの気温38℃とラジオが言い放つ炎天下、ましてや山間部、通行人なんてものは皆無ですので近隣民家に直接訪問します。

 しかしどちらの家も在宅とは限りませんし、まして平日の真昼間に在宅されている方は第一線を引退された年配の方が多く、また、昨今の都会的年配者対象の詐欺のことも頭を過ってのことか、余所者の突然の来訪には訝しがって的を得ない話となるのも良くあるパターンですね。

要は「早々に退散いただく」というスタンスです。

 

そのセールスマンらしきややこしそうな話を持ち出す輩を追い払うパターンは当方も判り切っていますので、怖い顔で「あんた誰?」と云われたら「問われて名のるもおこがましいが・・・」と啖呵はきらないものの早めに、かつ丁重にこちらの目的と、信じてもらえるかは判りませんが「坊主」であることを伝えます。

そうすれば人によってですがそれまでとはうって変わって饒舌に話し出す方もいらっしゃいます。

こちらの場合はそうでした。

 先を急いでいるので早めにとは思うものの懇切丁寧に話しだしている所にもはやストップはかけられません。

しかしこのような地で出遭う方の話というものはいたって面白いものですね。

 

気になったのが話の語尾の「おじゃる」。

「おじゃる」言葉はつい御公家さんら専ら高貴の人が使用するものであると錯覚に陥りますが、もともとは古くから町民レベルでも普通に使用していた言葉で「~である」の丁寧語です。

NHKのアニメにもそんな名前がありました(おじゃる丸)。

 以前、本山や各寺院で催される法話・説教の部類で時折、年配の方々が使っていたのを耳にしていましたが、あらためてこの地で裸同然で出てきたご主人が、普通に、案内(あない)し語る言葉の所々を「閉める」その語尾に、酷く新鮮な思いがいたしました。

 

 こちらから伺ったわけでもありませんでしたが、話には門徒特有の言葉も散りばめられ真宗的な臭いがプンプンするような方でしたね。

何より「丁寧語」ですので私ごときの突然の来訪者に対しての言葉であると思えば、尚更感激した次第です。 

 さて、本年70歳と云われるその方の話の内容を少々。

忘れもしない18歳の時、向かいの寺の本堂から出火したときの無念の話。火災に気づいて家を飛び出し一所懸命で堂内の御内佛やら什物を運び出しましたが、4回目に本堂に入ろうとした時、既に内部は火の海で諦めざるを得なかったとのこと。鮮烈にその時の様子を覚えている様。

それ以来半世紀以上に渡って御本尊はじめ御荘厳は庫裏の中に。火災で助かった御本尊は庫裏におわしたのです。

道理で見当たらなかったわけです。

何もない山間の過疎地に人は住みにくく減るばかり。

このお寺の檀家さんは次々に減って行き今は10件に満たないそうです。

よって御住職は下の町まで仕事に出て行っているとのこと。

鐘楼と半鐘が寺の顔として迎えてくれました。

 

お話くださった方は勿論どこよりも「この地が一番」と仰っていました。

何でも揃う便利な大都会の雑踏か、不便な田舎の山間地の厳選された人間関係か・・・極端な例の小生の軽口ではありますがどちらかといえば後者の方に憧れます。

都会の人間関係というものは密集の割には薄弱で、その集団は時として「烏合の衆」化し、問答無用の無慈悲な動きに流され、ちょっとした無関係な「個」のミスから重大な事故に巻き込まれかねません。

不特定多数の雑踏こそ、うかうかとは接近し難いむしろ忌避したい場所であることが判ってきました今日この頃です。