日坂川坂屋の二階 成瀬大域の間

当大澤寺の三代目は祐傳(ゆうでん)という人です(大澤寺縁起鬼瓦にまつわる)。

 

その兄の系統は推測の部分と実際にその系と伝わる家とありますが、そのうちの日坂の成瀬家にかかわる手がかりはいくらかは当家に伝わっています。数代前までは当相良大澤寺と交流があったことも推測できます。

 

今年の一月に中国・東晋(とうしん)時代の「書聖」とよばれる王羲之(おうぎし)の精巧な模本が発見され、東京国立博物館のお墨付きをもらったという報道がありました。

7〜8世紀の唐時代の宮中で写されたものの一部とのことで、王羲之の真筆が残っていない中、羲之の書を伝える上でいかに貴重なものの発見であるかと紙面が踊っていました。

 

王羲之といえばその書を写したものを明治天皇に献じて天皇から大層気に入られ「楠正成の硯」を賜った成瀬大域がいますがその成瀬が日坂成瀬の子孫です。

 

明治天皇の成瀬大域への褒美として出した逸品が河内悪党・楠木正成の硯であるというのはいかにも粋に感じます。

成瀬家の祖は後醍醐天皇による鎌倉幕府討幕戦である元弘の乱で後醍醐天皇や楠木正成らと笠置山に籠城し、落城後六条河原で斬首された足助次郎重範だからでした。

 

定説では三方が原で戦死した成瀬家当主成瀬藤蔵正義の跡を継いだのは三方が原から浜松城への案内をしたといわれる弟の成瀬正一で、あの長篠合戦屏風に描かれている馬防柵の前で指揮をとっている姿が思い浮かびます。

 

その正一の子が正成で初代犬山藩主、つい最近まで犬山城は成瀬家の所有物でした。

ところがその話には異説があって、正義亡き後に家督を一旦継承した正一はその跡継ぎに兄正義の遺児(長兄)を入れたというものです。

 

この手の継承はいたって無理のないものであり、当時としてはむしろこちらの方の説が一般的であったと思います。

正義の四人の男子の行先について浜松在住の林信志氏によれば・・・

 

成瀬正義

     |―――――― ①正成(隼人正 犬山城主)

釋尼妙意  |――②半右衛門(片岡家へ)

      |――③藤蔵(西方 百姓家へ)

      |         |―――――― 宮内衛門(日坂成瀬)

      |      花林祐春大姉     與四兵衛(藤明家?)  

                  |                                藤兵衛

                  |

              |――④祐傳(大澤寺三代)    

  

                 

日坂の川坂屋(6/88/11)の2階に成瀬大域の間があります。

①は成瀬大域肖像 大域の孫の由良滋氏蔵(福岡県太宰府市)

②楠木正成由来の硯 大域の孫の成瀬淳氏(茨城県茎崎町)が掛川二の丸美術館に寄進。