手柄の恩賞は所領そして金 「信玄坑」

 「一所懸命」の言葉の通り、命にかけて得るものが所領。

土地を第一の基本資産と据えて、その不動産(知行)を維持し、いかに増やしていくか当主の役目であって、またそれこそが当主の戦働きによって左右されました。

 

 所領の安堵の件、敵勢力の土地を奪取(切り取り)して初めて配下に分けることができましたので、そう簡単に家臣の論功行賞の褒美としてポンポンと土地を出していくことはできませんでした。

当然に時として相手方に掠め取られることもあったでしょう。

寺社の本領などは勢力の拮抗した時代、複数の支配勢力から安堵状を発行してもらうなどという例もありました。

当地では今川そして武田と徳川ですね。三家すべてに安堵してもらえればどちらが転んでもOKですからある意味したたかでした。

 秀吉が天下を統一して家臣団に所領を分配、もはや褒美を出そうにも切り取る土地が枯渇した状況に短絡的に思い立ったのが海の向こうの韓国や中国の土地だったのでしょう(朝鮮出兵)。

 

土地を凌ぐ恩賞は有りませんが、土地が手当てできない場合は各種グッズを用意しておきました。何しろ兵の働きに対する恩賞こそ戦意高揚に不可欠、そして良好な上下の信頼関係の維持につながりますので、できるだけ早い時間に、「感状」という現代版表彰状と付録の品物を皆一同の前で与えました。

 

配下の者どもの働きに対して配られる褒美は働きの程度の差によって非公式に勝手につけた「官位」や衣・刀剣等色々なものがありましたが、やはり手っ取り早いのは「金銀」の類でした。通貨という感覚のまだ薄い頃のおカネです。砂金をそのまま使用する場合もありましたが特に武田信玄時代での甲州では「甲州金」と呼ばれる碁石大より一回り大きいサイズの金の固まり(碁石金)を配下に振る舞いました。

 

甲州金と呼ばれるくらいですので信玄は甲州圏には複数金鉱を保持し精力的に金産出に力を入れました。またその金堀の技術を敵方が籠る城の水の手を切ることに利用しています。

 信玄は甲州だけでなく侵略した地域の金産出の噂に敏感にアンテナを伸ばして、ここぞという場所を探索させたと思います。

愛知県の設楽町の津具という地(場所はここ)に「信玄坑」と呼ばれる坑道址が今も山肌に口を開けています。別名津具金山です。坑道入口が本当に残っているのか不安になりますが藪、林の中の踏み固められた道状の急坂路を登ればスグに上方に看板が見えてきます。

 

看板の内容は

「元亀3年の頃より甲州武田信玄の勢力がこの地にも及びました。信玄は津具川に砂金の産することを知り採掘をしましたが、この山に金鉱脈を発見して、幾つかの坑道を掘りました。この坑道はその一つで総延長は140mほどであり、途中枝分かれしています。採掘された鉱石はこの下の古町で精錬したので、当寺使用した金摺石が今でも残っています。
武田氏が滅亡した後は、織田信長に続いて徳川家康が採掘したことが古文書に記録されています。設楽町教育委員会」