空襲で焼けなければ・・・ 大垣城 

1400年代後半に東大寺城と呼ばれたこの城は国人層の大垣氏が入って大垣城(場所はここ)といつしか呼ばれるようになりました。地図でも掘割がよく確認できます。

揖斐川(牛屋川)の近くにあったため牛屋城など、他に色々な呼び名があります。

その後時代を経て城郭化拡大し、織田時代は池田恒興、秀吉時代の天正十三(1585)には秀吉恩顧の一柳直末を入れて天守を造営させたといいます。近江―美濃を結ぶ最重要地点(関ヶ原近隣の城)ですので特に戦国期には、名だたる武将が入れ替わり立ち代わり入城しています。

特に、豊臣家では秀次・秀長・秀勝までもが顔を出しています。

 関ヶ原の際は当時の城主、伊藤盛宗が西軍について一時的に石田三成が入っています。西軍についたということでその後落城、初代大垣藩主(5万石)として石川数正の従弟の石川康通が入り、その後も目まぐるしく城主が変わりますが寛永十二に戸田氏鉄(うじかね)が入り以降戸田家が代々明治まで城主を繋ぎました。

 当初は城主が変わるごとに改修が重ねられ四層四階総塗籠(ぬりごめ)の漆喰が見事な城が明治の廃城となった以降も存在していました。

国宝に指定されるほどでしたが昭和20年の空襲で惜しくも焼失しています。大垣市内は揖斐川の水を利した工場が多くあったため全6回の空襲にあったとのこと。

今ある天守風の威容は模擬天守の資料館です。

戸田氏鉄(うじかね)の銅像がこの城に一番長く居た家の大元であったことが推測できます。