二代秀忠の弟、松平忠吉と舅親井伊直政

兄の秀忠に代わって関ヶ原で奮戦した家康の四男、「忠吉」の元の名は「忠康」。遠州浜松生まれでお爺さんの広忠と父家康のそれぞれ一字を拝命したものです。

 文禄の頃、武蔵忍城主時代(入封は13歳)に元服して「忠吉」に改名し1600年の関ヶ原の後、尾張清州城に入っています。

将軍の弟としてエリートコースを約束され、かつ信望を集めた人でしたが28歳という若さで亡くなっています。

 

 彼のそれまでの栄華や雄壮賢才さを世に知らしめたのはやはり初陣関ヶ原での先陣です。

陣形からいえば徳川勢中の中央のトップに配されているところは、まぁ「お飾り」と言ってしまえばそれまでですがこれは徳川軍本体になるはずであった秀忠軍が上田城で手こずって遅延確実となった状況の苦肉の策でした。

家康としても息子を正面に出さなくては恰好がつきませんのでピンチヒッターとして登場させたかと。

サッカーのフォーメーションで言えば3トップのセンターが忠吉として、トップ下に本多忠勝を試合を作る立場に置き両翼は豊臣恩顧の反三成派。

特に左サイドの福島正則がオフサイド気味に前線に張り出していました。

 事前の陣触れでも福島正則の一番槍についてはだいたいのコンセンサスが出来上がっていましたが、どうしてもその手柄を忠吉に与えたかったのは忠吉室の父親、井伊直政。

勿論婿殿の後見役でもあり相当張り切っていたことが窺えます。

 左サイドの福島隊の制止を振り切って僅かな手勢で忠吉隊の鉄砲隊が西軍トップの宇喜多秀家隊に向かって火ぶたをきりました。殆ど号砲合図の如くで名目的ではありますが松平忠吉軍による開戦です。

当初は宇喜多軍に相当押し込まれていましたので実質は押しとどめた福島隊の奮戦の力が大きかったというのが戦いの本質でしょう。

 松平忠吉の功績として大いに家康を喜ばせたのは小早川の寝返りによって形勢が東軍に傾きはじめてからです。

例の意表を突く「薩摩島津隊反転中央突破」の際に執拗に島津を追撃した井伊直政と忠吉は敵の大将、島津義久の甥、島津豊久を討ち取ったといいます。勿論手柄は忠吉ですね。

これらの功績で忍城10万石から清州(美濃・尾張)52万石に大躍進しました。それまで清州に居た福島正則も24万石から約50万石の大身となって広島藩に転封しています。

忠吉亡き後はその弟で家康九男の義直が継いで、できたばかりの名古屋城に入って尾張徳川の祖となりました。

 

関ヶ原の松平忠吉と井伊直政の陣の碑は「東首塚」敷地内にあります。画像は東首塚東側からの図。