切られた首と胴体の行方 関ヶ原東首塚

関ヶ原での戦勝を家康はのんびりとその美酒を味わっている暇はありませんでした。

西軍の大将、敗走した石田三成の居城佐和山を田中吉政らに落とさせ、その牙を完全に削いだあとは三成探索と捕縛を任せるだけでした。

田中吉政はやはり秀吉恩顧で皮肉にも秀次事件で助けられたと言われる三成を捕えることになります。

 家康としてはニンマリでしょうね。相手の大将の掃討戦などは敗戦処理の大義で本来のすべきことは他に山ほどありましたから。

 

 家康の真にすべきことは「論功行賞」である「首実検」というイベントは完結させなくてはならない一大行事で「戦勝」には切っても切れない行事ではあったものの、既に心中は次にありました。

 西軍敗走の将の処断については当然の課題であり、彼らの所領を奪い取って東軍として自らに合力した武将たちに加増させるという作業はこれから山ほどありますが、とにかくも京都市中に真っ先に入って市中治安守護という大義の旗を掲げることでした。

 関ヶ原での勝戦とはいえ、まだまだ畿内では豊臣家は圧倒的人気下にあり、今回の関ヶ原も秀頼のバックアップという大義で戦ったという厳然たる事実に家康の立場はまだまだ微妙なところがありました。

 特に家康にとって心逸る最後の陣(首実検)であったことは確かで一刻も早くこのイベントを切り上げて早々に上洛したかったことは確かでしょう。

 

どちらの戦いでの「首実検=論功行賞」においても「その後の首」の立場は同様でしょうが検知した首がどうなるかは、まず大抵は捨てられます。

状況は色々ですが手頃な場所に穴を掘って塚ができます(長篠の塚)。塚はある程度の費用を地元民に渡して、要は「あとのことはまかせる」的なところだったでしょう。

 幕等で囲った首実検の陣場の外側に雇って待機させている地元民に託して葬ってもらいます。稀に大将首の場合や、縁者の名乗りがあって引取りを希望した場合等、国元に帰る場合もありますが、何分「生もの」で、現在のように塩も豊富に手に入らない時代ですのでそのような場合でも首はそのまま放置、埋葬してもらい、まげやもとどりを切って持ち帰ったと思います。

 

 首実検前の首は家臣縁者の襲撃により取り返されるという話は聞きますが、このイベントが過ぎてしまえば既に辱めは受けてしまったということ、そしてお役御免(価値が決定した)の首はもはや奪取されることは無かったと思います。

 

 勝手に戦場の場に選ばれ、田畑は荒らされ、家屋は焼かれ、終われば死屍累々の遺骸を首やら首の無い体やらを集めて埋めるというバカバカしい仕事をさせられたのは、たまたまそこに住んでいた人たちでした。

考えてみれば酷過ぎる大迷惑ですが戦国時代は当たり前のことでした。

 

 しかし家康ほどの政治力経済力のある武将となればのちのちの評判も気にかかる所でありますし、自軍の兵の亡骸の存在もありますので「手厚く葬って欲しい」などという一言と、ある程度の経済的支援もあったと思います。

そして大量の武器類の処理のため、そういう戦いのあった場所では当然の如く、鍛冶屋・金物屋・金属加工業が多く発生し地域貢献となったことは大いに想像できますし、遺骸の所有物(着物・甲冑・馬具・金員)も案外馬鹿にならない副産物となったでしょう。

 

 画像は昨日のブログ、血洗いの井戸のある「東首塚」(場所はここ)。家康の首実検の陣から約300m南に行った関ヶ原駅の近くです。

墓らしいものとしては宝篋印塔が一基。堂の中に何があるかは判りません。また周囲の垣根が「立ち葵」らしき植栽がなされているのは徳川家の家紋、「葵」を意識したものなのでしょうか。

最後の画像は東首塚後方から北方を見た図。

関ヶ原役場と三成の陣があった笹尾山方向になります。途中のこんもりとした林が首実検の陣場です。

 

下の三つは三井寺園城寺(場所はここ)。重要文化財の仁王門ほか家康はこの寺に対しても手厚い寄進、各堂宇の再建に尽力しています。

関ヶ原後京都へ一気に家康本体がなだれ込むイメージは避けたいところだったのか、京寸前のこちらで一旦宿泊滞在しているとのこと。