毎年不闕(ふけつ)に 蓮如さん御文

第三帖の十一(文明七年十一月二十一日書)の御文です。

「毎年不潔」だったらちょっと引きますが「不闕(ふけつ)」は「欠かさずに」という意で「毎年不闕に」とは、まず「欠かさず毎年参集いただき」と相手の労をねぎらう気持ちを表すフレーズですね。

  御文の内容は蓮如さんの虫の居所が余程悪かったのか数ある御文の中で相当重たい御文の内容と感じています。

特に時節的に御正忌報恩講に併せた書面ですので本山報恩講にて拝読されることが多いようです。

ざっと区切って前段中段後段。御門徒の信心の在り方、報恩講の迎え方についての「苦言」ともいえる蓮如さんの厳しいお達しでした。

 その厳しいお言葉の数々で私の様な坊さんの立場で生かされて自分自身半信半疑、時として「わけわからん」状態に陥り、もはや似非坊主を称する他は無いのかという私にとってはケツを蹴飛ばされるような思いがするのがその御文の中段部分です。

 

 さて、先ごろ私と同じ真宗の坊さんの某ブログ(過去分)を読ませていただきました。このブログは御開さん聖人の指針から真宗門徒の在り方を確固とした論拠によってよく語り、多々頷かされる事があるのですが、どうしても私として了解できない部分がありましたのでこちらでピックアップさせていただきます。

そのコメントの後にその「第三帖の十一」の御文が記されていたことから尚更「ちょっと違う」感を持ったわけですね。

色々な考え方があっていいのですがそこのところ「私はこうですが・・・」という意見がありますので記させてください。

 そのブログの内容を要約すれば、その方はお西の報恩講に行ったら門主の法話があったがお東にはそれらしきものが無いということに違和感があった様ですね。

 

そのブログのコメントを転記させていただくと・・・。

 

『東本願寺の報恩講には、こういったご親教がありません。

東本願寺のご門主は、障害を持っておられるためにお話することは出来ないからです。それならそれで他の誰かを立ててお話をすれば良いのでは?と私などは思うわけです。そのあたりのリップサービスと言えば言葉が悪いでしょうか、「もてなそう」という感が薄いのが残念なのですよね。本山くらいの法要になると、たくさんの人がお参りになりますし、支える僧侶もたくさんいるわけですから考えついてもよさそうなものなのですが、頭がかたいのかやる気がないのか、もてなしていこうという配慮が全く感じられないのが、東本願寺の「残念」なところです。果たして「残念だ」と思っている僧侶がどれくらいいるかわかりませんが、私はもう「期待」はしない心境に入ってしまいました。やはり人は記憶を忘れ、手段の目的化の中に沈み歴史を繰り返していくものなのでしょうか。』

 

以上某同派僧侶のブログより。

 

私は「残念な坊主」の烙印を押されようとも「それでいい」と思っています。

勿論「聞法に尽きる」のが当流一流の作法ではありますね。

しかしコメントにもありましたように大谷派の御門主は聾唖というハンディキャップを抱えている方です。

「門主のお話」というくくりでは「お話はできない」ことはしょうがないですよね。

まさに「ありのまま」で「それでいい」は真宗の宗旨ではありませんか。何を背伸びして「もてなす」のでしょうか。

くだくだと何かに凝り固まったような法話の如き時間が形式的に催されるのであれば「何も無いその時間こそ それでいい」と思います。

 

 お恥ずかしながら私はお東の報恩講に未だ参拝する機会がありませんでその時の状況は判りませんが、かつての住職任命式に参加させていただいた時の御門主の姿をここで記させていただきます。

 

 参加者には事前に「これから御門主がお話する内容」ですよ、と説明されてプリントが渡されました。

門主は発声は出来ますが殆ど言葉にならず私たちには聞き取ることはできません。しかし聞き取れなくとも一所懸命にお話される姿、そして心から私たちに祝辞を述べる強烈なインパクトを感じたものです。

 果たして、「お勤めはどうするのだろうか」等私の如く下世話な坊主は考えますが、事の本質たるや声に出す出さない関係が無いのですね。

確か、そこにいらっしゃるだけで全ての事は伝わり、この「宗派は最高である」と思ったことが思い出されます。

障害があろうがなかろうが関係ない、そのことが門主への就任の障りにならない、みんな同じであるのだ、という表明なのですね。まさにわれらの宗旨です。

言葉の発せられない坊さんがトップに立って代表を務める宗門が他にあるものでしょうか。

 おそらく我が真宗大谷派東本願寺だけでしょう。

私はそこに胸を張って「最高!、最高!」と喜んでいます。

本当に有り難いと思っています。

その方のピンチヒッターが出てきてペラペラしゃべったとしたらむしろ台無しです。

「しゃべれない」のだから「しゃべれない」でいいではありませんか。お話があれば耳を傾け、無いならその空気の中に一處する我が身を喜べばいいのです。

門主の一所懸命の姿を拝察できるだけで大いなる「親教」になっておりますよ。

さあ、その御文中段の部分を記します。耳が痛いです。この文言を引き合いに出したのだからそのブログの主人はやはりお東の報恩講でお話が無かったことに対して腹をたてたのでしょうね。

お話が無いことを「ていたらく」と断じられるとは・・・。

まぁそういう異見に耳を傾け相互に認め合うのが真宗でしたね。

 

「近代このごろの人の仏法知り顔の体たらくをみおよぶに、外相には仏法を信ずるよしをひとにみえて、内心にはさらにもつて当流安心の一途を決定せしめたる分なくして、あまつさへ相伝もせざる聖教をわが身の字ちからをもつてこれをよみて、しらぬえせ法門をいひて、自他の門徒中を経回して虚言をかまへ、結句本寺よりの成敗と号して人をたぶろかし、物をとりて当流の一義をけがす条、真実真実あさましき次第にあらずや」

 

 

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コメント: 2
  • #1

    通りすがり (火曜日, 24 11月 2015 12:40)

    御門首です。

  • #2

    今井一光 (火曜日, 24 11月 2015 12:47)

    ありがとうございます。
    御西の呼び方でしたね。
    御門首が正解でした。
    ご指摘ありがとうございます。