忙しすぎて「熱中症」 12代徳川家慶

長州藩が逆賊(朝敵)となって御所周辺で大暴れし敗走時に火を放ったために東本願寺は灰燼に帰しました(1864年禁門の変・蛤御門の変)。

東本願寺だけではなく市中3万の民家が消失した後世「どんどん焼け」と呼ばれた大迷惑でした。

 余談ですがあの大負けから長州藩が短期間に復活を遂げて明治政府を起こし、その血脈が延々と日本に君臨していること自体も驚きです。歴史の「タラレバ」は絵空事ですがあの時もう少し徳川慶喜が強行に長州征伐を行って反対勢力を駆逐していれば歴史はまた変わっていたでしょうね。

意外にも京都民衆には長州同情論が浮上し「火をかけたのは会津」との噂等も広がって結局は悪いのは幕府と立場も徐々に逆転して行き本格的討幕運動へと繋がっていったのも時代の流れだったのでしょうか。

  

 朝敵だったグループが尊王攘夷を標榜し、それを尊王討幕キャンペーンに改めた後、幕府が瓦解、次は明治天皇を頂点に置く「神輿の担ぎ手」システムを作り上げたのが明治維新ですね。

「神輿」が進む方向に国民は同調しなくてはなりませんが、「神輿」というものは往々にしてその進む方向の舵取りが誤った方向にきられます。各個人ではその意図が無くても、全体では思わぬ方向に力が向いてしまい、建造物に衝突したり、制御不能の力で人を圧死させたり・・・以前、ここ相良でもそのような事案がありましたし各地でよく聞く話です。

 それが国家レベルの舵取りとなって大きな方向違いが起こることが「戦争」であることは言わずもがなでしょうか。

 

 要はその担ぎ手たちの責任の所在です。個人的に突出したハミ出しモノが出たならばその者の処断をすればいいのですが、集団、組織のシステムでは責任というものがハッキリしてきません。トカゲの尻尾切りに陥ることもうまくありませんね。

国内どこを俯瞰してもどの社会の単位(国会から政府組織、会社組織各各何につけても)にもその日本全国『お祭り』的ドサクサによる責任不明瞭な「大義名分あれど、なぁなぁ主義」が蔓延しているような気がします。

 

 さて、明治という新しい時代を迎えたとはいえ伽藍消失の窮乏東本願寺を助けたのは全国各地の御門徒でした。

あれだけの建造物を一人一人の奉仕の積み重ねによって成就させたことも感服に値しますね。

 当山の「波さん」も金額については記されていませんが「本山寄進」し明治初期には当山大澤寺に「金100円」の寄進をしたとの記録が残っています。

波さんは15歳で江戸城に上がり17年間、途中相良に帰郷したことはあったのか、父母との手紙等のやりとりはあったのか、生涯独身を通したこと以外、聞かされていないことで、気になるところです。

 1836年15歳の時に江戸城に上ったその後を推測すれば1844年23歳の広大院の逝去を機に江戸城を去りました。そのあとが広大院のコネで薩摩藩邸の奉公を経て元の推薦保証人?であった仙台藩邸で過ごしたものと。

 32歳で仙台藩江戸下屋敷の奉公を終えたのが嘉永六年(1853)の七月でした。やはりそのタイミングは世相の変化だったと思います。

その年の夏6月22日にに家斉のあとを継いだ12代家慶が急死しています。

家慶の死去がもうすこし後の事であったらまた歴史は変わっていたかも知れませんね。急きょ後継した17歳の13代将軍家定があまりにも病弱で、世相の混乱を収拾させるには無理がありました。

この時期はアメリカからのお客さんが大挙してやってきた時代で「太平の世」は完全に壊れかけていましたから。

 12代将軍家慶の死因は「暑気あたり」です。

その年の6月3日、家慶が亡くなる19日前に浦賀にペリー黒船が来航していますので、彼の頭の中もさぞかし「沸騰」していたことでしょう。

「暑気あたり」とは今でいう「熱中症」のことですね。

昔からその突発性の季節の病気の発症はフツーにあったのです。

家慶は、無理難題にぶつかって大騒ぎ、大混乱に陥った城内にあって、裸になってひっくり返るワケにもいかず、ひたすら耐え忍ぶことを強要されていたのでしょう。

将軍職にあって強度のストレスに暑気あたり、体調を大きく崩して死に至った事案でした。

 

画像は麻布山善福寺内、本邦初「アメリカ公使館」跡の碑。②に親鸞聖人銅像が見えます。