大井川を上る 本川根 小長井城 

2005年に本川根町と中川根町が合併して成立した川根本町は大井川上流。

昨日のブログ金谷から大井川鐡道に揺られて川を上っていけば山麓に抱かれて点在する集落にあたります。

 

域内の標高差は2400m。まさに「南アルプスの麓」というに相応しい場所ですね。

平家の落武者伝説等の話も耳にするような辺地(昨日に引き続き、これも失礼!)でもあります。

とても素晴らしい景観で私の好きなエリアではありますが、やはり山間部集落の悩み、「過疎化」が著しく、切迫したテーマとなっています。

1970年15205人→2010年8072人(総務省統計局)。

 

 当相良にもこの地より嫁入りし御実家と相良を往復している方もいらっしゃいますね。

こちら川根本町、この地にも武田方遺構を構える城跡があります。

 

藤川という地の「徳谷神社」が本郭となって三の丸→二の丸→本丸とコンパクトでわかり易く土塁等の遺構が残ります。

主郭の北側の郭も当初は残存していたそうですがここ相良にもある「海洋センター」(場所はここ)という施設が建設されるにあたって消失していることは残念なことです。

 

そもそもこの城については不明な所が多く、伝承が主ですね。

城の名はその神社の名称の「徳谷城」や「小長井城」「小長谷城」と呼ばれていますが、当地を治めた国人層の首領でしょう、小長谷家の居城と伝えられています。

城の古い遺構は15世紀頃です。

当家は当初は当然ながら今川家の被官となっていましたが永禄十一年(1568)の武田信玄の駿河侵攻に合わせて武田の軍門に降っています。それ以降に改修されて三段の曲輪の配置が成立したと言われています。

空堀遺構は1~5号。3号と4号の堀が甲州流築城術と断定されています。

 

武田滅亡によって城主であった「長門守政房」を最期に廃城になりました。

 

下の図①が鳥居を潜ってスグの古井戸。②が二の丸の曲輪跡付近から振り返って見る①の古井戸。

古井戸は江戸末期の島田の郷土史家「桑原黙斎」(造り酒屋稲葉屋)の記した「大井川源紀行」に記述があります。

 

「此の澤鳴澤と呼ぶ。泉の源は岸村の杉山の奥より出るなり。

此の坂右に廻れば傍らに花表(鳥居)あり。此の地は是古城跡にて、むかし小長谷氏のよれる所なり。かの花表の内に入りて見れば、牛頭天王の社なり。

岸・田代・藤川の惣領守とかや、社の棟に七曜或いは瓜の内に橘の紋を打たり。賽謁して所々見廻りしに、右手一重のの外入口より右の方に古筒井の跡あり。臨み見るに、中央埋まりけれども畳揚たる石垣損せず・・・」

 

と文化九年(1812)の記述です。

 

下図③が山間の麓を走るSLと④が途中に掛かる吊り橋。