聖武天皇の詔(みことのり) 国分寺

仏教的思想に基づいた「十七条の憲法」を制定した聖徳太子から約100年を過ぎて即位した聖武天皇は日本全国に徹底した仏教重視の施策を進めて、以降我が国の仏教発展のベースを整えます。

天平十三年(741)には国分寺、国分尼寺の建立天平十五年には東大寺盧舎那仏(大仏)―天平勝宝四年(752) 開眼法要)―の建立の詔を出して、また天平勝宝六年(754)唐より訪れた僧、鑑真を厚遇します。

聖徳太子の大志が聖武天皇の時代に開花したといっても過言ではないでしょう。

 

 聖武天皇の国分寺(正式名「金光明四天王護国之寺」)建立の詔の概略は各国国府に七重塔を建てて国分寺とすることですね。東京の「国分寺」や「府中」、「神奈川県海老名市国分」はじめ「国分」等の地名はその名残です。

 

 「本願寺」という名称は亀山天皇が下賜された「久遠実成阿弥陀本願寺」(くおんじつじょうあみだほんがんじ)がその由来であると云われていますが、以降も当流は後柏原天皇勅願寺となるなど、「民の宗」としていながらも天皇家の厚い保護を受けていました。各天皇はそれぞれ宗派の推挙もあって色々な勅願寺を指定していました。

 

その皇家が現在は恰も「神道」一本のいわゆる「宗旨」であると解釈されるようになったのは、やはり特に明治以降のお話でしょう。「神仏分離令」以降に「勅願寺」の指定は廃止させられたのでした。

 

国学ブームを巻き起こした本居宣長・平田篤胤の皇家特化の思想が幕末の復古神道、尊王攘夷に結びつき、それが突飛な薩長同盟になって尊王討幕運動へと変化、討幕完成(明治維新)により薩長主体の明治政府が成立して彼らが恣意的に行った政策が「神仏分離令」(廃仏毀釈)だったのです。王政復古政策の一つでした。当然に明治天皇の意図するところでは無かったでしょう。

仏教界からすれば廃仏毀釈は最低最悪の思想で、多くの寺院が疲弊・衰亡しましたが美術・芸術の世界でも多くの仏像や仏教美術品の海外流出に繋がってある意味、世界的にみても

「自ら下した恥辱」として他に例のないものでした(ボストン美術館展)。

 

天皇が意図していないことをとりまき(内閣等も)にあたかも利用するが如く遂行されたのが戦争でありました。

東京裁判では、ある意味天皇家を天に戴いているかの如くを吹聴し、皇家の威を借りて結局は自らの権威や権限を主張、国民を動かしている者こそが「戦犯である」として処断されましたね。

総国民のコンセンサスの無い内閣の施策方向の事案、「主権回復の日」として政府が開催する「主権回復・国際社会復帰を記念する式典」に皇室を巻き込むことは天皇への配慮が足りないと皇室ジャーナリストが苦言を呈していました。

天皇の思慮や趣旨に反する式典への参加招聘にまで応えなければならない立場には本当に気の毒に思ってしまいます。

 

画像は遠州磐田の国分寺跡、現在の市役所の北側の広い敷地です(場所はここ)。

 古代遠江国の府中は磐田だったのです。金堂を中心にして七重塔・講堂・中門・回廊などの伽藍が配置されていました。

築地塀などによって区画されていたことを彷彿とさせる土塁状の地形も残ります。

③の画像は七重塔礎石です。

磐田市の製作による「遠江国分寺CG復元」がアップされています。