時代に抗うより身を任せてみる 赤松則良

相良住人の私から見た現在の磐田のイメージは「国府」という感覚は既に過去の呼名、今節やっとのことで一勝をあげたジュビロ磐田は一昔前の強さが姿を消して、地元贔屓といっても気持ちはかなりクールダウン・・・。

 

 敢えて言えば東名高速サービスエリア「遠州豊田」からのスマートETCで出入りが簡単、数年前に突如天竜川東岸台地の茶畑原野に出現したSCに映画を見に行く楽しみくらいでしょうか。ちなみにこちらのETCを出て台地を西に降りたあたりが匂坂城の址になります。

 

さてこの台地から南方に降りた市街地にシャレた赤レンガの建物があります。

旧幕臣の静岡組ながら明治政府に重用されて貴族院にまでなった「赤松則良」の屋敷跡です。

彼が政府の重鎮(海軍中将・・・)として活躍の場を与えられたのは若い時の経験と身につけた特殊技能でした。

 

 16歳から長崎で航海術を学び幕府からの後押しもあってあの咸臨丸に乗船、渡米が目的でしたが、アメリカ本土の政情不安(南北戦争)からオランダに変更して留学、語学は勿論、造船技術、海軍砲術、戦術のエキスパートとなりました。

「負け組」となっても適当なところで諦めて次のステップへ歩を進めるということも大切であるという例ですね。

戊辰戦争で最期まで滅びゆく幕府の命運に合わせて滅びの道を歩んだ幕臣は数知れず。

赤松則良は薩長軍に切り込みをかけて命を捨てて忠義を尽くすことよりも、生きて活躍の場を探して成功した人でした。

彼の長女は軍医で作家の森鴎外の妻となっています。