笠原政晴 戸倉城は攻めづらい 調略

昨日のブログから・・・小田原征伐で、笠原政晴は父親の松田憲秀(松田惣領・庶子)と当初は徹底抗戦派でしたが「堀秀政の調略によって松田・笠原親子はともに豊臣方に内応しようとした」というのが通説です。

親子が豊臣方に通じているという風説を流布させて小田原方籠城組の不安を煽ったというのも十分な調略行動ですが本当の所は判りません。

 

 嫌疑をかけられて即座に斬首された笠原はともかくとして囚われの身となっていた松田が開城後に豊臣方の手で腹を切らされています。

これは開城前に豊臣方の事前の交渉があったというよりも、「親子が豊臣方について謀反を計っている」如くの風説を信憑性高く「さもありなん」という巧みな術を施して、小田原をまんまと混乱に陥れ、開城させるきっかけとなった「大成功」に関しては表向きは伏しておいた方が天下の秀吉にとっては都合の良いことですね。

松田憲秀を生かしておけば後々になって「無実」(謀反は無い)を口外吹聴されかねませんので、秀吉の汚点ともなりかねない真実を葬り去るために、あと一人の生き残りの始末をしたのかと、うがって考えてしまいます。

 

 よって私は秀吉方の調略行為の多少はあったことでしょうが笠原政晴の主導的な謀反、秀吉方への同調までには至っていず、あの映画の如く、無実の罪で首を刎ねられたという説の方をとりたいですね。

 

しかしその秀吉方の流布したであろうニセ情報を思わず信じてしまいそうになる過去の事情がありました。

伊豆・駿河のまさに国境に立つ戸倉城はあの名水で有名な柿田川が狩野川に入り込む地形となり河川が曲がりくねった場所、浮島の様に突き出た小山に作られました。

 

小田原から見れば相当戦線が伸びて、三国同盟によりバランスがとれていた時期はともかく今川氏の衰退から武田勢が南下したあたりからの最前線となる不安定な場所になります。

城の指揮系統からすればかつての北条氏(伊勢氏)の本城である韮山城の支城といった感じになりましょう。

 

三方を河川という天然堀に囲まれ、尚且つ陸地側は池沼の湿地帯に数段の空堀と郭、土塁、曲輪と攻め手の武田側の難渋は半端無かったと思います。

 城代として入っていた笠原政晴はこの城で武田勝頼の調略を受けてその時は本当に武田方に寝返っています。

一説に籠城防戦有利のこの城に限って笠原政晴は守備の人となっていたそうですが、また武田方は堅い城方に手をこまねいていて戦線が膠着していたところを家中より「笠原臆病者」の烙印を押されるような評価が蔓延して立場が日々悪化していたといいます。そんなところに敵方城将の調略を受けて降ったといいますね。

 

いずれにせよ反旗を翻したことは紛れもない事実。

その後実際に武田方として小田原方と戦火を交えるまでいたった挙句、武田氏滅亡後は父親の松田憲秀の取りなしによって再び小田原に復帰しているという「前科」があったわけでした。

そのような状況にある笠原政晴の情報を秀吉方がいち早く掴んでそれに付け込んだ情報戦を行っているということはやはり驚きともいえることですね。

 

 調略・裏工作はズルいというか嫌ですね。戦国時代は強い者がより強くなるための常套手段でしたが日本の伝統にもなっている感があります。よく言えば「根回し」という言い方もありましょうが・・・

かつて日米協定に関わる基地敷設が憲法問題になったことがありました。一旦は違憲の判決が出ていたにもかかわらず、政治屋の根回しによって後に違憲判決取り消しが確定した例がありました。以後「三権分立」は眉に唾。司法は「政治的」なものには判断しないという判例を築いてしまいました。

私は名ばかりの最高裁判所裁判官国民審査には以来罰点をならべているも空しいだけです。

ごちゃごちゃ面倒くせぇこと言われるのは嫌だから憲法そのものを変えちまえとでもいった昨今の流れにも嫌悪を感じます。

 

画像は昨年9月の戸倉城址付近。昨日の地図、徳倉龍泉寺が城将の館址推定地です。

この日は雲が多く山頂に建っている妙な展望台から眺める景色に富士山は隠れていて顔を出しませんでした。