伊勢新九郎 伊勢盛時 伊勢宗瑞 北条早雲 

たくさん名前があって困りますね。全て同一人物です。

最近になって研究が進み伊勢氏が足利幕府申次衆、今でいえば「世襲の官僚家」の如くの名家であったことが判ってきました。その辺りの所は折々ブログでも記させていただいております。

その伊勢家というのが元は伊勢平氏(伊勢の国)の「伊勢」でありその流れが備中(岡山県井原市)に来て室町幕府中枢に入り込んだものでしょう。

伊勢から備中、備中から京都という距離もさることながら当時の人々の距離感覚のスケール、そして通信システムと情報の掌握力については驚かされるばかりです。

大きな距離の移動にはリスクが伴いますし、引っ越し先等先方の状況、行く末の収入試算するための情報量は豊富にあったことが思量できます。吟味目論む資料が無くては簡単に動けるものではないですからね。

のちに伊勢宗瑞が駿河に訪れて着々と力を付けていけたのも当初から中央に大きなコネクションがあったということが推測できます。相当色々なところにアンテナを伸ばし、またその情報を苦も無く得る方法を熟知し、そして何より迅速に行動に移し得た人が宗瑞だったのでしょう。

 

 この伊勢平氏出自というところ、そして伊勢宗瑞が伊豆に進出した「韮山」がかつての鎌倉北条の拠点であったところから2代目北条氏綱がそれらを由縁に「伊勢→北条」に名字を変えたのが小田原北条の起こりです。

 

 これはやはり新興勢力として、古くからの土豪・国人層を差し置いて急速に成り上ってきたと思われても仕方のない伊勢家を「鎌倉将軍北条氏の後継者」として外部に知らしめて関東を支配する大義名分としたかったということは言うまでも無いところです。

 

 それもそんな見え見えの名字の変更について通常は誰が考えても「オカシイ」と言われてしまうことは判っていますので当然に幕府のコネを使って「執権北条の後継」を主張すべく「北条」を承認させて、お墨付きを得たということでしょうか。 

 

 「北条早雲」と耳に親しいですが、本人すらもその名を呼ばれて「えっ?」と思うほどかなり突飛な変更だったでしょうね。嫡子の氏綱が宗瑞が亡くなって10年以上経ってからやったことで当人は知る由もありませんが。

 

 大森氏から小田原を奪取した後も韮山があくまでも伊勢家の本拠であって宗瑞は小田原には出ていませんでした。

当初は息子の氏綱が小田原に入いって関東進出の橋頭保としていました。

その後、氏綱が小田原を本城として関東を凌駕する基を築きその子の氏康になって最大勢力に上り詰めます。

 

「氏綱公五カ状の訓戒」は北条家の代々の戒めとして伝わりますが現代にも通ずるところがあってとても興味深いところです。

所謂、「大将の心構え」、「大将の器」についてです。

 

特に第二条をピックアップしました。 

「人の身分や地位に関係なく差別なく大切にして慈しむべきである。一見劣っていると決めつけて馬鹿にしてはいけません。人には必ずいいところも何かしらの才能もあるのだよ。

心広く人の上に立つ者はそれぞれの人物を必ず評価していかなくてはならないのです」といった感じでしょうか。

 

「侍中より地下人百姓等に至迄、何も不便に可被存候、惣別人に捨りたる者はこれなく候、器量・骨柄・弁舌・才覚人にすくれて、然も又道に達し、あっはれ能侍と見る処、思ひの外武勇無調法之者あり、

又何事も無案内にて、人のゆるしたるうつけ者に、於武道者、剛強の働する者、必ある事也、たとひ片輪なる者なり共、用ひ様にて重宝になる事多ければ、其外は、すたりたる者は、一人もあるましき也、その者の役立処を召遣、役ニたゝさる処を不遣候而、何れをも用に立候を、能大将と申なり、此者は一向の役にたゝさるうつけ者よと見かぎりはて候事は、大将の心には浅ましく、せはき心なり、一国共持大将の下々者、善人悪人如何程かあらん、うつけ者とても、罪科無之内には刑罰を加へ難し、侍中に我身は大将の御見限り被成候と存候得者、いさみの心なく、誠のうつけ者となりて役にたゝす、大将はいかなる者をも不便に思召候と、諸人にあまねくしらせ度事也、皆々役にたてんも立間敷も、大将の心にあり、上代とても賢人は稀なる者なれば、末世には猶以あるましき也、大将にも十分の人はなければ、見あやまり、聞あやまり、いか程かあらん、・・・」

 

また第四条「倹約」のところでは

「古い物(考え)がイイよ。新し物好きは軽薄者だ」とまで断じています。

 

「惣別侍は古風なるをよしとす、当世風を好は、

    多分は是軽薄者也と常々申させ給ぬ、・・・」

 

領国拡大に沿って氏綱が注力したことは鎌倉の鶴岡八幡宮の造営です。鶴岡八幡宮は大永六年(1526年)に戦火で焼失していましたが武士の棟梁、源頼朝建立の武門の守護神たる八幡宮のパトロンとなってその建立に関わることは「北条」を名乗って後継者たるべく関東を制するという「冠」の如くのプライドとその偉業を達成することを示して落慶法要を取り仕切ることに最大の意義がありました。

 

 画像は御用米曲輪発掘箇所の庭状遺構の図。石組水路に供された石は白系の箱根安山岩、黒系が小田原風祭で採取される凝灰岩で「風祭石」、黄色い石が三浦半島の砂岩で「鎌倉石」です。

鎌倉との職人や資材の交流を連想させるものの一つです。