紀州藩555 田沼家中 福住家遷仏

紀州和歌山藩は家康の十男、徳川頼宣が入って破格の領地55万5千石。その数字は紀州に伊勢の一部が加わったもので厳密に言えば「紀伊和歌山藩」が正解。

頼宣の孫の紀伊藩主に吉宗が出て幕府八代将軍となります。

以降幕府は紀伊の色が濃くなり各将軍の浪費癖もあいまって財政は逼迫してゆくゆくは薩長の台頭を許す事になります。

しかしこの吉宗将軍が無ければ田沼相良藩は無かったことでしょう。

享保元年(1716)、吉宗が江戸城に登る際、紀州藩士200人がお供したといいますがその中に紀州藩中お仕えの田沼意行(もとゆき)が加わっていました。

相良藩主となる田沼意次はその子です。

 

 当山大澤寺の過去帳を紐解くと、「田沼御家中」の但し書きが十数件出てきます。また口承によりその旨をお聞きしている家も若干あります。

 

 当山住職7代目祐信~8代目祐本は相良城本丸正面、新町に寺があったためか城へ上がって家中での講義を行っていたそうです。

今考えれば公務員レベルで相当優秀な御先祖様の姿が推測できます。それにしても私は・・・御先祖様申し訳ございません・・・。

ちなみに当時は寺には「寺男」というのが居て、今私のしている主だった仕事、「雑務」を坊さんがやるということは無かったのでした。

 

 そのあたりの寺とお城の関係から当山でも田沼家中の葬儀式も受け持ったことと考えられます。

ところが過去帳に残る殆どの名は現在の相良に残っていません。

いわゆる「無縁さん」となって永年墓参も無いかあるいは墓石そのものも撤去されているといった家ばかりです。

ある時期「突然出てきて突然消えた」名は当然なのかもしれません。

 大名にまで上り詰めた田沼意次は江戸生まれとはいえ、縁の深い紀伊から吉宗がそうしたのと同じように多くの家臣を招集したことと思われます。そして相良藩御取り潰しの沙汰によって家臣はまたちりじりになって相良を去って行ったのでした。

 

 その中で明らかにその名は大和、福住(場所はここ)を思わせる名があります。相良では珍しい姓と思います。

紀伊とはそう遠い場所では無く田沼家足軽として相良にやってきた当福住家も推測ですがその流れでしょう。

 

 天理市の福住には中定城(福住新城)と井之市城(福住古城)の二城があり、勿論城主は福住氏でした。福住氏の歴史上に登場する時代は早く、氏姓でいえばやはり名門家。

昨日のブログに記しました筒井家とは縁戚で松永久秀との抗争では幾度となく主家である筒井家を助けています。

本家レベルになると筒井家は大坂の陣で断絶していますが福住家は幕末以降続いていますね。

 

 春分の日は当山にて、福住家の墓地遷仏法要がありました。田沼時代から続けて、当山だけでも墓地の移動は3回は行っている(新町→波津①、本堂裏→新新墓地②、新新墓地→新新墓地)ようですが今回は神奈川県藤沢市の自宅近くの墓園への移動。

その日をもちまして当山との250年近いお付き合いは終わることとなりました。

お寂しいことではありますが、遠方ではあることと継承問題もあって致し方無いことかと。

これまでありがとうございました。

時に御次男が婿入りした大沢の麺屋さんのソバを食べて福住さんご夫婦を思い出したいと思います。

 

画像は今後撤去される福住家の立派な墓石。

やはり家紋は筒井家同族を臭わせる「梅鉢」。

その家紋が心なしか寂しそう。

季節もやはり梅は終焉を迎えました。