市街地に埋もれて 善得寺城

 興国寺城は伊勢宗瑞の伊豆侵攻の手がかりとなった城として知られていますが、一説に伊勢宗瑞は同じ富士の裾野ですが今少し駿河寄りの、後に三国同盟前に北条氏康が侵入した「浮島原」という湿地帯を隔てた丘陵地帯(現在の富士市)にあった善得(徳)寺のさらに西方の善徳寺城に入ったという話もあります。

 

 そもそもは上杉禅秀の乱で鎌倉から逃れた鎌倉公方の足利持氏を保護(→三の姫さま)した今川家四代今川範政が東方からの守りのために築いた城です。

善得寺跡も善得寺城跡も現在は富士山南麓、なだらかな斜面を利用した宅地が広がり、殆どその面影を偲ぶものは残っていませんが、近年整備された善得寺公園から離れた場所に日吉浅間神社があってそちらが本丸のあった場所といわれています(場所はここ)。

 

 桶狭間で義元横死の後、嫡子今川氏真と三国同盟の袂を分かれた信玄に対して氏真支援により北条氏政ら小田原北条がこの城に一時的に入っています。

絶頂期の甲斐軍団の猛攻に北条家は為す術も無く早々に東退しここの一帯は灰燼に帰しています。

 

画像は日吉浅間神社東側の綺麗に積まれたそれらしい「石垣」です。おそらく発掘されたものでは無いと(検証していません・・・)思います。

日吉浅間神社の縁起に「第二十一代住持が明治維新後に還俗し六所良邑と改名」とありますのでその富士修験者代々の住持と六所家によって浅間神社は管理されていたようです。勿論パトロンとして元は今川家の保護を受けていました。