京からわざわざ お茶壺道中

お茶の嗜みが現代の如くごく日常的になったのはやはり幕末以降、当地牧之原台地にて旧幕臣たちが茶園開拓し、お茶生産能力を爆発的に高めてからですね(→喫茶養生記」と鮫島庸一先生)。

 それではそれ以前の御茶の供給地としての最大ブランドといえばやはり宇治茶ですね。もっとも今の様な庶民性は「ゼロー」で、大衆の口に御茶が入るようになったのは江戸中期以降です。

何と言っても宇治茶は鎌倉時代から生産されていたといいますし、室町、戦国期には茶道の流行から将軍家、有力武将によって茶園が開かれました。当地でも高級茶で施す被せ茶、「覆下茶園」を始めたのも江戸後期の宇治茶からですね。

 将軍家光も御茶好きだったそうで、幕府に献上される「お茶壷道中」が宇治から江戸までの道中を練り歩きました。

 

さて、私の生まれ育った小田原の地、早川口(十字町・お花畑)は現在の南町。小田原城の南側、石垣山の手前の早川までの間にある場所です。

其のエリアに旧東海道、現国道1号が走っていますがその道を「お茶壷道中」が箱根山を下って小田原城に立ち寄りました。城の南「箱根口門」より入城すれば「小峰橋」、通称「お茶壺橋」を渡り、お茶壺曲輪から「住吉橋」→「銅(あかがね)門」経由で進みました(下の図面)。

 

 城内には御用米曲輪同様に「御茶壺蔵」が設けられており、江戸へ向かうお茶のうちのいくらかをこの地で降ろしたという記録があるそうです。

 そのようにお茶壺道中の往来に使用されたことからこの橋を「お茶壺橋」と呼ぶようになりました。

この橋は南町と小田原駅の途中にあって私は一時期毎日の往復に渡っていました。

 

当時と現実の状況とは違う部分はお茶壺橋を渡ればスグに本丸に通じる「常盤木門」に直線で行ける様に錯覚しますが、当時は堀が続いておりどうしても橋を渡ってから右折し(画像②)御茶壺曲輪に入らなければならなかったのです。

城の防御性を考えればもっともですね。

確かかつては画像②の様な土塁跡、薬医門がかつてあったことを連想させるような構造物は無かったような気がしますが・・・史実はどうか判りません。恰好はイイものに仕上がっています。バックは三の丸小学校。

 

画像①はお茶壺橋の上から堀上の現小田原図書館方向の図。

現在はコンクリ製で大したものではありません。

③が当時は無かった場所、堀を埋めて直線状にした通路から住吉橋方向。

④が小田原人の通称「藤棚」。お茶壺橋の手前にあります。