滞留させることによっておカネを使わせる

「まず来訪いただいて、できるだけ長居していただく」。

これ、商いの基本ですね。その場が必要絶対不可欠の場合、

さらに強みを発揮します。

 

 大井川に江戸侵攻の障害を設けるという意味で橋を架けないということは理由としては理解できますが、歴史的に見てそう大層な意味は無かったようにも思います。

昨年10月29日30日にもブログにて。川幅についてはこれ。

また、昨日博打場について記しましたがそもそもそれらが多く開帳された理由はこの大きな川による人々の「滞留」があったからでしょう。

 東海道という全国でもより人の流れ有数の街道で「川を超える」という一つの「約束」を設けて無理やり金員の出費を通行人から徴収するシステムが「川越」です。地域全体が潤ったのです。

この面倒な~今でいう飛行機のチェックインにも似た~渡河の段取りにツアーの区切りとして大抵、金谷宿あるいは島田宿への投宿が予定に組まれることになるでしょう。

そこに「川越」のシステムに乗った「商い」が成立して双方の宿は繁盛発展していきました。

 

 勿論大井川は船の利用も無断渡河もご法度でした。

川の水量によって渡し料が変わってきますのでできるだけ水位の低い時に渡るのがより経済的です。しかし自然のことですので宿泊代と天秤にかけて渡しを決行します。

渡し人足の脇の高さを超える水量になれば川止めの触れが出ました。

川越の営業時間はだいたい午前6時~午後6時。時間外は必然的にどこかに停まることになります。

勿論川止めともなればより宿場町は活気が溢れて経済効果は計り知れないものになりました。

 

 幕末には最長28日の川止めがあったと聞きます。一旦旅に出て、帰るに帰れないで余計に宿泊費その他遊興費を使うということですから長雨が続くなどしたら想像を絶する出費です。

今考えると「リスクがある」という以上に余程金銭的余裕が無ければ旅は出来なかったということですね。

 

その余りある時間を過ごさせるために旅籠は規定以上に「飯盛り女中」を雇いました(当時は接待用の女中の数まで規定されていました)。

口入屋(そのスジの人が仕切った人材派遣業、手配師)は勿論、周辺の様々な商いは大いに繁盛しましたが、特に時代劇でもお馴染み、口入屋の裏稼業として、また地域をまとめたあのスジの「親分」が無宿人等をも集めて囲い込んで、「賭場」を広げて行ったのです。「賭場」そのものにも人が集まり大井川周辺は今でいう一大歓楽街となっていたものと推測します。

 

十手持ち兼務で賭場を運営する「親分」、これはいわば政府黙認の経済活動だったのでしょうね。

東京や大阪でも「公認博打場」を今風に「カジノ」と言葉を変えて建てようと画策しています。

人間はコントロールの効かない生き物なのでこれ以上の博打場の造営には多くの人生破綻者を招くことにも繋がりますので、いくら役所が博打場の胴元になってのアガリを期待できるからといっても支持することはできませんね。

発想が安直すぎます。

どうせ経済的破綻者や犯罪行為が顕著となっても終には「自己責任」として断ずるのでしょうが。

 

画像は金谷諏訪原城段丘の下を走る国道473号より見おろした大井川と当時の渡しの川札(油札)料金。

まず「川会所」に出向いて住所氏名目的等を告げ、この札をチケットとして購入して川の人足の詰所「番宿」に向かいました。

 

 最高の脇通り約2820円の川札は人足一人分の料金です。

4名人足だとその4倍+台札(1人足の2倍)が経費となりました。

2人乗りの台を依頼すれば6人+台(2人分)になりました。

一番の格安は「肩車越し」(かたくまこし)ですが、荷物や水量によっては補助がつきますので2人分と考えた方がいいかもしれません。