保守的で典型的平均的静岡人の原形 二足草鞋

聞きかじった話で失礼しますが静岡県は日本の真中に位置しているということもありますが統計的に見て県民が極端な趣向に向くでも無く温暖な気候もあってかごく平均的な日本人の姿であると言います。

そのような平均的データを期待するサンプル調査が静岡県で行われているといいますね。

 

 そのデータを元に商品がヒットするのかポシャるのかを見定めるのだと思いますが、ここいらの大きなショッピングセンター等には関東では見たことも無い新商品がよく並んでいます。

その後全国レベルでは日の目を見ない、静岡だけで消えていく商品もあったりしますね。

静岡で当たれば日本中で、静岡でダメなら展開を諦めるというような指標としてです。

 

何故にその様な静岡県人気質が出来上がったのかと言えば

やはり私は幕末の「二足草鞋」の世界に静岡人がズップリと浸かっていたせいだと思います。

人々の往来の多い街道筋には当然に無茶な稼業(八百長の賭場―賭場は殆どがインチキ)が集まって理不尽なワケわからん沙汰(先日のブログ)が横行します―それは往々にして封建社会にはつきものですが、「そのスジ」の人たちの闊歩と「その社会」が封建制度の末端に組み込まれていくことによりその不合理制は増幅し、静岡人はそのタテ社会で従順に生きていく術を培っていったのだと思います。

政治的に言えば保守的でもありますね。 

温暖で山海の幸が豊富であるという地域性もあって、あまり突飛に個性を主張しない、温厚で従順で包容力ある気質が形成されていったのではないでしょうか。

 

 ここ相良でも昭和になってからもその手の博打場の話は多くあって、名家でありながらその身代を棒に振って破産状態になったなどという話は良く聞ところです。

最近になってめっきり賭博開帳図利罪などという事件は聞くことは無くなりましたが一昔前は色々な場所の屋根裏、隠し部屋で博打が開催されていたといいます。

 

バクチ場が多かったのは東海道の街道筋であったこと。

江戸から京都までは比較的ストレートで平かな道が多いにあって駿河・遠州は大きな難所を2箇所も控え(箱根、小夜の中山)、大きい川が各所に流れて、それもその川には「橋が無い」ことが大きな理由だったと思います。

 

 文化十二年(1815)の勘定奉行の達書(たっしがき)に当時のやくざ稼業の風がどうであったかを推察できる色々が記されています。

 

「在々所々長脇差を帯び、または帯刀致し、御代官手付手代(八州廻り)の手先、あるいは火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)手先などと申しなし、博奕(ばくち)致し、喧嘩口論を好み、仲直りと称して金銭をゆすり取り、所々百姓家にて衒事(かたりごと)、または押借(おしか)り等致し、あるいは人の女房娘等を無体に連れ参り、百姓家へ押しかけて無賃にて数日逗留致し、盗賊を取り押さへ、双方(盗賊と被害に遭った者)より金子(きんす)等をゆすり取り、無賃にて人馬等を継ぎ送らせ」

(佐藤雅美、[やくざ物]の系譜より)

 

ですので現代にも通じる「だいたいこんなものだったろう」と納得させられる次第です。

 

画像はサークルKサンクスのお馴染み静岡県内高校生コラボレーションによる菓子パンです。