頼朝から女装して逃げる

当家口承、今井兼平末裔という噺はどこかの代で取ってつけたヨタ話級のこじつけくらいにしか今では信ずる術はありません。

私としては近江出自のところだけは確かなところでありますので、スンナリ「近江源氏佐々木氏家臣」と決めてしまえば、近江河瀬城主系の現橿原市の今井町に入った河瀬権八郎(のちの今井兵部)や近江出身の堺の商人で茶人でもある、今井宗久らと同郷となって気持ちとしては落ち着くのですがね。

 

とにかく今井兼平といえば亡くなったのは近江ではありますが、とかく歴史上勇猛果敢かつ不運の将として語り草となった人ですので信州、越後、木曽、美濃、近江にはその「末裔である」という夥しい数の「今井さん」がおられます。

 

そのように歴史的資料の無い話は、参考にならないくらいの「参考」となっていわゆる史実を探求する「史学」からはまったく違う世界のものとなるのですが、やはり私の感覚としては後の「鎌倉殿」源頼朝の施策は大いに誤りがあって結果的に源氏の本流の血脈さえも守れなかった彼の「元気だった頃」の暴走の数々にはまったく感心ができないところです。要は木曽殿の肩を持ちたいのですが。

 

兄弟親戚、家臣に対し粛清に次ぐ粛清を行って滅ぼしまくって、結局は自らの息子たちを守る者も居なくなって滅ぼされるという凡庸なミスを犯した人であります。

やり方も命令により滅ぼさせた者を他に滅ぼさせ、またそれも滅ぼすといった陰湿で狡猾な男のように見えてしまいますね。

彼は自分の姿を失っていたのでしょう。

 

多くの彼の無慈悲な粛清話の中で従兄弟にあたる源(木曾)義仲を弟の義経に滅ぼさせ、その義経を奥州藤原に討たせ、その藤原家も最期には討ち取るなんて話ですが・・・。

義経とともに木曽殿を討った源範頼もお決まりの「謀反の疑い」という嫌疑をかけて誅殺しています。

 

さあ、ここで以前から触れています女装による逃走という今一つのエピソードを。

 

 義仲の息長子源義高(義高の母は今井兼平の妹)は鎌倉にて人質として取られていて頼朝の長女、大姫との婚姻が決まっていました。かなり仲睦まじかったとのことです。

にもかかわらず頼朝はその関係を引っ剥がして義高(11歳)を抹殺しようとしますので、その辺の父の空気を察した大姫(6歳)は自分の侍女と女装させて逃がします。

翌日には頼朝にバレて追手を差し向けられて結局義高は殺されてしまいます。

無茶な話はまだ続きます。

伊豆時代からの御家人堀親家の郎党、藤内光澄が義高の首をあげますがこの話が娘の大姫の耳に入り大姫は以降病に伏すことになってしまいます。

すると「娘の病気はあんたのせいだ」と妻の政子に激昂されて、それではと今度は義高を討取った藤内光澄に八つ当たり、処刑して晒し首にするのです。

 

 まったくアホ丸出しの頼朝さんでした。

大姫は長く病んで結局20歳で亡くなります。

 

 

鎌倉の常楽寺(場所はここ)に義高の墓と伝わる塚(木曽塚)と大姫の墓があります。画像は「奥の墓道」提供。