うどんつづき お国の違い、文化・宗教の違い

日本国内、相良からたかだか200km程度の距離しか無い伊勢の国の名物「伊勢うどん」に驚いてはいけません。

 

かつてのサラリーマン時代、私の職場には社内各部署への人材派遣をする仕事がありましたので当時、外部の人材派遣業社との付き合いもあって多くの「格安人材」が短期で社内に入って来ていました。

 

 格安人材とは外国人のことで、出入りは激しかったですが比較的3K(キツイ キタナイ キケン)と言われる日本人の嫌う職種もこなしてくれて有り難い人たちでした。

 

当初は社内の鬱病などの長期休養より復帰した人たち(勿論日本人)を社内復帰に慣れさせるためと実情を知らない本社人事の指示で受け入れていたようですが実際の私に関わる仕事は「3K」と嫌われる職場であり殆どの人たちが出社して数日で病状を悪化させたり再び出社拒否となっていました。

  

 そのように誰も寄りつけない部署となって「掃き溜め」のイメージとなっていったのかも知れませんが、私にはそんな仕事が楽しくて大好きでした。

 

 今となっては大変申し訳なく思いますが、当時の私には給料をいただいて日々の仕事をクリアしていく中で、病後の復帰アイドリングのために「お客さん」の如く配属された彼らの面倒をこまごまと見ていく余裕というものをまったく持ち合わせていませんでした。

与えられた仕事の完遂のみしか気が回らず脱落していく人のフォローなるもの、やりおうせぬことでした。

 

 とにかくあの時周囲には「うつ病」出社不能者が異常に多かったです。助けを求められもしましたが私にはどうすることもできませんでした。要は楽しすぎる仕事と自分自身がいっぱいいっぱいで余裕が無かったのですが・・・。

 

 そんな中、まともな日本人は居なくなり、試雇採用者か外国人のグループだけの部署になりました。

よっておつきあいした外国人の国籍は様々となったわけです。

ブラジル、中国福建省、中国朝鮮族、ペルー、ミャンマー、タイ、チベット・・・彼らは私をボスと呼び、私も「多国籍軍」を率いる班長としてトラックやラウンドカーに乗せて構内速度厳守なれど縦横無尽に走り回っていました。

 

 ラウンドカーはゴルフ場用の軽車両であたかもジープの様、昔テレビ放映されていた「砂漠の鼠 ラット・パトロールだ」(ロンメル軍団に挑むジープ数台で編成する連合軍のチームを描いた痛快戦争映画―昔はその手のテレビ映画がたくさんありました)とはしゃぎながら私は毎日楽しく過ごさせていただいていました。

  

職種は「何でも屋」です。

通常の表向きはクリーナーですが社内で困ったこと、手が足りないことどんなことにも顔を出すという職場です。

極端ですが、社長室など役員室の絵画掛け、耐震転倒防止バーの設置などキレイな場所から工場貯水槽に浮いている大型犬の死がいの片付けまで、ありとあらゆる事ですね。

 

 ちなみに後者の場合など社内中皆が逃げ回って私のグループにご指名が廻ってきた事案です。お盆明けの出社日に見た可哀そうな出来事でした。

 あの時はもやい結びで投げ縄を作ってから犬の胴体に回して上部の梁に掛け廻してトラックの尻に結んでから引いて吊りあげ、下に用意した袋に入れるという算段。手を汚す事も無く大した仕事ではありませんでしたね。

会社に便利に使ってもらって皆に喜んでもらうことにまた喜びを感じていました。

 

私のボスも私の性格を見計らって特殊な高所作業も厭わずに受注してくるため、「兵」を引き連れて外部にまで仕事を請け負っていきました。私が退社した後はその部署は消滅し、その手の仕事は外注に出したそうです。

 

 まともな日本の人が居つかない理由を周囲の人は「鬱の人」「まじめな人」はきっと私の様なノー天気でいつもニヤけている人間の近くには居たくないのだと言っていましたね。

まぁそれ以前に人がやりたがらない多少無茶ともいえる仕事を冗談のように笑って遂行することに、呆れ果てて去って行ったのだと思いますが。 

 

 そういう、「人への配慮」ができない、我がままに振る舞っていた時代でした。

また、組織の一員として組み込まれた給料取りにとって、致し方無かったのかとも思っています。

目標を持って動いている会社の一員にとって、また同僚として理解しなくてはならない鬱という病、その人の存在によりどうしても結果的に私を含め周囲に負担がかかってしまうために、いけないこととは知りつつも「関わり」を疎遠にしがちになってしまいました。皆、私を疎ましく恨んでいたかも知れません。

 

 個人レベルの理解も不可欠ですが会社組織としてもこれからはその手のリスクに関わって行く努力をしていかなくてはならないですね。

 

さて、砂漠は砂漠でもアルジェリアの悲劇は痛ましい出来事でした。お悔みして合掌いたします。

 

 相良への引っ越しの手伝いをしてくれるまで仲良くなった福建出身の「わんちゃん」に福建の話を聞いたことがあります。

彼は「気安く日本人が来る所では無い」と言ってたことを思い出します。特に気性の荒い福建人は「あの戦争」の恨みを日本人にまだ抱いている人が多いとのこと。

きっと時代を経ても教育がそうなのでしようね。

 

 アフリカは「地球最後の市場」と云われて日本企業が大挙して出向いていますね。それにしてもマリとフランスのゴタゴタからアフガンでトレーニングを積んだ連中やらカナダ人がエジプト人、モーリタニア人、ニジェール人、チュニジア人、マリ人、アルジェリア人で編成された例のイスラミックグループを引き連れてアルジェリアのプラントを襲ったという事件には驚きました。

 

 何とも国際色豊かな地に日本人がそのターゲットとして襲われるのですから日本の知名度たるや、ひと昔前とは格段の違いです。

 

一部のイスラム教徒にそこまで恨まれるような事をしでかしたのかこれは判りませんが、時代は変わりましたね。

「欧米人の集まる所、その近くは危険である」と云われ続けたリスク管理ですが今回、ピンポイントで日本人を狙っていることが判りました。

 

 企業はこの事によりいくらガッチリ儲かる市場がそこに転がっていても安易に出て行くことに相当のリスクが伴うということを肝に命じなくてはなりませんね。

今回もすべて承知のうえでのリスク・オンだったりして・・・

またも「想定外」なのでしょうか。

 

 思想イデオロギーの違いそして「郷に入れば郷に従え」の通り、その国のやり方(今回でいえば人質人命軽視の強硬策)に文句は言えませんね。当然にアルジェリアは主権国家ですから。

 

 アメリカ、イギリス、フランスの精鋭部隊でさえもアルジェリア政府に気を使って躊躇していたところですし。

ここへ来て自衛隊法を改正して・・・などとこれまた勇ましい発言が飛び出てきましたが、ゲームや絵空事の如くで滑稽ですよ。現状他国の軍隊が自国に入ることを「侵略」といいますのでね。

 

 我々は何の気無しに、また親切心をも持ち合わせて他国へお邪魔することがあっても先方様の方ではひょっとして心の底から憎悪の炎で怒りをぶつけようとしている人たちがいるかも知れないということを、心に深く刻まれた事件でした。

 

上記画像はブラジル人マルコスの自宅に招待された時の「豆料理」と彼のお昼のお弁当。とにかく豆オンリー。

礼儀上ニッコリ笑って完食はしましたが、「次」は無理ですね。

彼らからは「文化の違い」というものをまざまざと知らされもしました。

 

 下の画像①は某社5階建ての社宅の屋上からの図。

②の松の「天」を詰めているところですが、私が屋上から「オカピーこと岡田クン」(当時20代)のフォローに回っています。オカピーも相良まで引っ越しの手伝いに来てくれましたね。

③は同所のイチョウ伐採。楽しんでいますが一応気を抜けば人に迷惑がかかりますのでここはのんびりと「療養」に来られても困ってしまうのです。

また木の上に載れば罵声が飛び交いますのでね。

インドやミャンマー、タイのアジア系の方たちは適正が無かったのか続きませんでしたね。きっと恨まれたと思います。

それぞれの文化の違いからでしょうが現場で殴り合いにあることもしばしば。

そんな時は中に割って入らなければなりませんが、体を張って仲裁することは以後の彼らとの関係に重く左右することになりますのでとても有意義なことでした。 

 

つい懐かしくまたウキウキして記してしまいました。