ここにも義朝の墓 鎌倉 勝長寿院

平治の乱で敗走し杭瀬川から海路知多半島は内海(うつみ)野間の長田忠致の元に逃れた頼朝の父、源義朝は風呂場で騙し討ちにあい、家臣の鎌田政清とともに首を挙げられてしまいました。

(→ブログ20120820)

 

墓は現地、大御堂寺(野間大坊)にありますが、頼朝の父親への思いは深く親の仇として長田忠致と景致の親子を処刑したあとも鎌倉の勝長寿院に鎌田政清(政家)と並べて供養塔を建てました。(場所はこのあたり)

 

 当時の勝長寿院は「阿弥陀堂」の通称、大御堂とか南御堂と呼ばれ「二階堂谷の永福寺(ようふくじ)」と「鶴岡八幡宮」と頼朝建立三寺院として別格扱いでしたが、現存するのは「鶴岡八幡宮」のみですね。

大姫 (頼朝の娘)も参拝に訪れたといわれる西方浄土を思慮する寺は今はありません。

 

現在は住宅地の中の車1台が通れるほどの道の脇に設けた小さなスペースに二人の五輪塔と石碑、かつてあった寺の案内板があるのみです。言い換えれば壮大な寺院境内跡(遺跡上)に住居が立ち並んでいる状況です。

⑥の画像、大御堂橋を渡って上記の「住宅地」に進みます。

 

以下掲示板より

文治元年(1185)源頼朝は父義朝の菩提を弔うためこの地に勝長寿院を建立した。ここには定朝作の本尊金色阿弥陀仏像、運慶作の五大尊像などが安置され阿弥陀堂、五仏堂、法華堂、三重の宝塔などの荘厳な伽藍が建ち並んでいたが、16世紀ごろに廃絶したと思われる。

ここに、工事などで出土した礎石を集めてある。