元信と元㤗 元々義元の偏諱 一字拝領

高天神城つながりの元信と元㤗。

岡部丹波元信孕石泉守主水元㤗のことですが、ともに今川義元配下で氏真敗走後、武田方に付いた武将です。

そして亡くなったのも高天神で天正九年三月。

 

 そういえば松平元康(徳川家康)の「元」も同様ですね。

今川配下として駿府で生活し、桶狭間でご主人が滅するまでは、仲のイイ悪いは別として「同輩」でした。

ただ譜代の家臣か支配国の人質かの違いはありましたが。

 

結果的に武田方に付いて高天神に籠城し家康に討ち取られた元信と元㤗でしたが、やはりその二人の選択肢としてはいくら何でも「今川」を露骨に裏切った家康方には付きにくかったでしょう。武田も相当の勢いがあった時代ですし。

家康が高天神城を攻めた天正九年(1581年)当時、家康は38歳、3人が駿府で暮らしていた頃の「桶狭間」が永禄三年(1560)で17歳。

元信と元㤗の生年は不詳ですがどう考えても家康よりは少なくとも3歳~5歳は年上で、二人に竹千代時代から近くに見ていた「無遠慮な若輩者」(特に孕石の談)家康の配下に収まるという気持ちには到底なれなかったことでしょう。

 

その二人が同時に収まる供養塔が静岡市内にあります。

本覚寺(ほんがくじ)さんは鎌倉時代からの日蓮宗の古刹で当流でいえば「別格本山」クラス。(場所はここ)

 

本堂近くの墓地域が始まる辺りにその看板が建っています。

「岡部」も「孕石」も静岡中部の地名であることは以前ブログでもお知らせした通りですが、今一つ「岡部」の方が知名度が高いのでしょうね。「孕石」の名はその石標の右端に確認できました。

 

境内前の道からは見上げるほどのクスノキの巨樹が2本並んで立っています。樹齢は800年と言われているそうです。