先達が苦労して通い、整備した悲喜こもごもの道

昨日の続きです。小夜(さよ)の中山の正式地名は「佐夜鹿」(さよしか)。

昨日の「広重」を良く見れば「日坂 佐夜ノ中山」とあります。

あの絵の登り坂の道に描かれている例の「石」は京都より新首都「東京」に向かうためにこの道を通過する明治天皇の行幸に邪魔になったという理由でその道端に置かれたことからその後の「流転」が始まった様ですね。

絵に描かれたものであろう石が、現在中山トンネルの東側のお店の裏山に置かれたものでしょうか。

 

一里塚は江戸日本橋をスタートにおおよその距離を測るポイントで家康が江戸―京都間を結ぶ大動脈「東海道」として整備しました。一里ごとに街道の両側に五間四方の塚を築いて榎や松を植えたそうです。

こちらの一里塚は慶長九年(1604)に設けられたとのことですが、そもそも測定方法も曖昧な時代での設定、現在日本橋からこの一里塚までの距離が五十六里、五十四里、五十二里と説が別れています。

 

③の画像は鎌倉幕府が開かれた後より本格的に開発されて江戸時代に入ると「大動脈」として機能し「広重」が江戸―京都のベスト55のうちに入った名所の現在です。

西側方面に向かって撮影していますので「広重」の絵とは逆方向になります。ただし筆が走ったのでしょうか現在はあの絵の如くの急坂の感覚はありません。

④はそのあたりから北側第2東名がその下を走る「粟ケ岳」です。

樹木をレリーフ様に植えた「茶」印で有名な山です。

 

 しかし何度かこの道を散策しましたが、「ここが東海道?」と思わせるくらい今は通行人などありません。

かつて箱根近くに居住していたことから箱根旧街道の状況は「薄暗くて不気味」という場所が多数あることから、驚きはありませんが今となってはこの道を通って抜ける人など殆ど見受けられないことに寂しさを感じます。

 

 さて、昨日記しました小石姫伝説の「妊婦の墓」の向かい(海側)、には⑤「涼み松」の小さな広場が整備されています。

こちらにはかつて松の大木(一里塚)があって松尾芭蕉が帰京の際にこの松の下で歌ったとよばれる句碑が建っています。

 

「命なり わずかの笠の 下涼み」

 

以来この松やその周辺の地を「涼み松と呼んだ」と現場の掲示板にあります。

 

その他この山道には芭蕉他句碑が各所に建っています。

西行は二度ここを使って歌を残しているようです。

かつてこの細々とした農道が西の京と関東を結ぶ幹線道路だったなどとは想像もできないことです。 

コメントをお書きください

コメント: 2
  • #1

    小山昭治 (木曜日, 20 12月 2012 08:46)

    以前 火剣山から小夜の中山までハイキングをしたことがあります。芭蕉の句碑には気がつきませんでした。
    この次に機会があったらぜひ見てみるつもりです。
    火剣山でキャンプをしてスカウトを連れてハイキングをするのです。私にはちょうどいいコースです。
    「涼み松」いい名前ですね。

  • #2

    今井一光 (木曜日, 20 12月 2012 17:31)

    ありがとうございます。
    城跡としての火剣山には1度だけ上がったことがあります。
    ハイキングコースには足を踏み入れていませんので
    推測するに小夜中山までは「結構」なコースですね。

    どうしても片道ならまだしも行って帰ってくることを
    考えるとどうしても踏ん切りがつきません。
    一人で行くのはつまらないし・・・
    歳ですか?やはり・・・ダメダメです。