今川氏の居館 今川城 慶壽寺

普通に今川館とか今川城をイメージすれば駿府ですね。

では駿府の今川館はといえば今となっては駿府城址しか思い当りません。

永禄11年(1568年)、大慌てで今川氏真が掛川に退去したあと武田の手で駿府は蹂躙されて灰燼に帰していますので駿府における今川の館については本当の所「わからない」というところが正解でしょう。

 

その後家康が元の今川館の上に堀を深く掘って土塁を築いて新たに駿府城を建てたのか、それとも微妙に違う場所にあって今は構造物の下なのかハッキリしていません。

今川の遺構、遺物らしきものの出土や発見がほとんど無いという理由があります。

 

ところが昨日のブログに記しましたように今川貞世(了俊)が九州の南朝勢力討伐の後、遠江守護職の本拠として堀越(袋井市)に居館を置いています。

当初の今川家では特に今の静岡市内の駿府地区には食指を向けていません。

室町初期の駿遠は反幕府、南朝支援の国人層が跋扈して今川家としてはまだまだ様子見状態(私ども大澤寺の御先祖も三河足助-成瀬ですので当然に南朝方)。

まだまだ幕府そのものの力は未完成で足利宗家に従順な今川家も本格的侵攻、統一への力の蓄積期間だったのです。

 

上出来のキレ者の弟、貞世の存在に影の薄くなった兄の今川家二代範氏はその嫡子、泰範の父です、泰範と貞世(甥・叔父)は後の駿遠「半国守護」の片割れ同士。

 その今川範氏の駿河の居館が「今川城」または「今川館」と呼ばれ、静岡市内ではなくて島田市にありました。

今考えると「こんな場所に?」というのが正直なところですね(地元の方には失礼ですが長閑な田園風景)。

 

余談ですが島田市街にそう遠く無く、地盤も悪くなさそう、津波とも無関係、羨ましいくらいです。ただし浜岡原発の被害想定は相良よりはまだマシでしょうがほとんど変わらないかも知れません。

 

駿河今川の初代今川範国も当初は島田の「岸」(東海道線六合駅北側の山間部・・・岸城)に拠点を構えましたのでこの周辺は今川家に縁の深い地域です。

国道1号バイパスのI.C.は「野田」という地名ですが周辺には「大津城」等、城の伝承が数多あるようです。

「野田」から大井川よりの旧い地名は「旗差」(はっさし)と呼ばれ、それら想像に難くない名称が残っています。

 

「今川城」は当地区特有の大井川系舌状台地の中間の突出部、本丸と推測される場所は(当然比較的平坦部になりますので)茶畑になっています。

城らしき遺構はといえば急峻な谷部のみから想像を巡らすのみで、防塁、堀切等の構造物のイメージはできませんでした。

その段丘の下部が二の丸と推測されていますが今川範氏の建立させた祥雲山慶壽寺があります(場所はここ)。

 

このお寺の山号「祥雲山」が貞世の建立の海蔵寺(昨日のブログ)と同じなのも偶然では無いでしょう。

 

こちらの場所をここ南遠の方に説明するには「島田病院の先」で通じますね。私の母もそうでしたがその病院は榛原病院で拒絶された場合の選択肢の一つでよく耳にしますので。

 

地名は島田市大草です。画像①は大草住宅の背後の今川城(館)址のある丘陵。

その丘陵中腹に慶壽寺。

本堂鬼瓦には今川の紋、金色の「二つ引き両」が光っていました。

本堂の背後に「今川城址」の標柱と県指定天然記念物の「シダレザクラ」が。

この桜は「孝養桜」とも呼ばれ、今川範氏が父の範国の遺徳に感謝して植えたものと。

季節になると愛でたという謂れがあります。

 

 本堂前には今川範氏の宝篋印塔とその一統らしき人たちの五輪塔が並ぶ一角があります。

これはいわゆる《とってつけた》感も残りますね。

そうなると墓の伝承の信憑性にもかかわってきますがこれは私には判りません。

 

 墓石の集合画像、同じような大きさで「相輪」と呼ばれるタワー部が目立つ石塔がありますが左側のものが今川範氏であると標柱に記されていました。

 

 宝篋印塔のスタイルは「相輪」がすくっと立って四隅に「隅飾」が花の如く上を向いて立つようにして開きその下の「塔身」と「基礎」そしてベースの「返花座」まで四角柱であるのが常です。

ところが画像の墓石の躰は一見「宝篋印塔」ですが「塔身」の部分がおだんごですね。あたかもパーツ取りしたかのごとく・・・他を見回しても少しおかしな石塔もありますね。

経年による崩落も十分考えられこれは致し方無いことでもあります。

 

その後追記

宝篋印塔の形式は五輪塔と同様の意味合いから各地に五輪の「水輪」部分の如く丸いおだんご状のもの(鎌倉期)が残っています。

よって何事も簡単に判断することはできません。