死期は序(ついで)を待たず  四季と死期

師走に入り遠州の空っ風がいよいよ身に染みて、本堂脇に立つメタセコイアの葉も錆色に変化して、あとは落葉を待つばかり。寒風に想います。

 葉を落とす針葉樹であるこの木は小さい苗木を購入してから育てたものですが、境内各所を転々と植え替えられて、この場所に定着させられたのが5、6年ほど前。

最近になってこの場所も本堂正面に近すぎて「これは失敗」とは思うものの北側の槙柏と対になって、軟弱な砂地に根を張り巡らし、本堂を下から支えてくれればと半ば「どうにでもなれ」と諦めているところです。

 

 メタセコイアはいわば新種の木。

とはいっても人間がこの木を有史以来「ただ知らなかった」というだけなのですが・・・。

1939年に日本の学者が化石を日本国内で発見したのち中国の原生林でこの木そのものが発見されてから、繁殖させられて出回りました。よって「生きている化石」とも言われます。

 

 この木の特色は樹形は形のいい円錐で成長が早く、30mくらいに大木化するということです。各地でこの大木を目の当たりにしてどうしても育ててみたかったのです。

できればその雄姿をこの目で見届けてみたいものですね。

問題点としては本堂側に伸びた枝の剪定と花期の散乱と落葉期の雨樋のつまり、掃除です。私も歳を重ねて、いったい誰がこの高木を剪定するというのでしょうか。

 

上記の如く将来の希望を記すことは簡単です。時間的利益―余命―を期待するのは一般的に言えば(煩悩にまみえた私であるからこそ)普通といえば普通なこと。

しかしそれが一筋縄ではいかないというのが生きとし生きる、命あるものの常ですね。(無常・変化はなすがまま)

一筋縄というのは順風満帆のことをいうのですが、この命に関しては甚だ「順風になんてはいかない」ということです。

 

その「不定」の性ではある命であるが故に常住の浄土に安楽しようというメッセージが親鸞聖人に始まって以来一貫して唱えられた真宗の「称名念仏せよ」であることは御承知の通り。

 

さて、「死期は序(ついで)を待たず」は吉田兼好、徒然草の百五十五段から。

抜粋するとワケわからなくなりますので全文です。 

 

画像は「生」に一所懸命、ノーガードで眠る「いろは姫」

(遂に1㎏を超えました)とメタセコイア。

 

徒然草 百五十五段

「世に従はん人は、先づ、機嫌を知るべし。

序悪しき事は、人の耳にも逆ひ、心にも違ひて、その事成らず。

さやうの折節を心得べきなり。

但し、病を受け、子生み、死ぬる事のみ、機嫌をはからず、

序悪しとて止む事なし。

生・住・異・滅の移り変る、実の大事は、猛き河の漲(みなぎ)り流るゝが如し。

暫しも滞らず、直ちに行ひゆくものなり。

されば、真俗につけて、必ず果し遂げんと思はん事は、機嫌を言ふべからず。

とかくの用意なく、足を踏み止むまじきなり。

 

春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。

春はやがて夏の気を催し、夏より既に秋は通ひ、秋は即ち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅も蕾みぬ。

木の葉の落つるも、先づ落ちて芽ぐむにはあらず、

下より萌しつはるに堪へずして落つるなり。

 

迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとる序 甚だ速し。

「生・老・病・死」の移り来る事、また、これに過ぎたり。

 

四季は、なほ、定まれる序あり。

死期は序を待たず

死は、前よりしも来らず。かねて後に迫れり。

人皆死ある事を知りて、待つことしかも急ならざるに、

覚えずして来る。

沖の干潟遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。」

 

※世に従はん人→世の中の流れ、時流にのろうとする人

※機嫌、序(ついで)→時期

※病を受け~→病と出産と死ぬことに限っては

※真俗につけて→仏道世間にかかわらず

※用意なく→準備を怠ることなく

※迎ふる気下に設けたる故に待ちとるついで甚だ早し→

 次の世代の若い息吹が押し出すよう待受けているが故

 移ろいは凄く早い

 

四季は、なほ~ 

 四季は、それでも、しっかりした時折がある。

 ところが死期は折を待たない(突然である)

 そして死は何も「前」にあるとは限らないのだ。

   かねてより「背後」(・・どころか色々な方向から)迫って

 いる。

  また人は皆死ぬこと自体は知ってはいるが、往々にして 

 その覚悟もできていないときに突然やってくるものだ。

   沖の干潟が遥かに見えても、あっというまに磯辺の足元 

 に潮が満ちるように。

 

どこの誰がトンネルの天井からコンクリが落ちてくることを予想できたでしょう。(35年以上メンテしていなかった管理者はそのことをうすうす承知していたでしょうが 「経年劣化」の四文字を意識しない構造物管理者はいません)

 

また、最後の一文はまるでまさに津波の示唆の様でもありますね。

まさに徒然草、人生の指針たる書物。