江尻城よりもさらに清水港へ向けて巴川を下ると「袋城」址があります(清水城とも・・・このあたり)。
城址といっても注意して歩かないと見落としそうに地味で【横丁の川っぷちの神社】と言えば怒られるでしょうか上総稲荷神社という神社が巴川の西岸にありますが、この周辺が城址とのことでかつての城の証拠なのか城の積み石が数点転がっていました。
粗雑なペンキ書き仕様で「袋城址」と記されています。
縄張りは馬場美濃守で江尻城と同じ。資料には「今福和泉守奉行」、「横田甚五郎」の名が。高天神城や諏訪原城でも見かけた御仁でもありますね。
元亀元年ですからほとんど江尻城の改築整備と同時進行です。
内陸側の江尻城とを大きく俯瞰すればこの袋城が海運の大手門としての役割だったのでしょうか。よって武田水軍の本格的前衛基地の城でした。城に不随する屋敷群や町組の構成は北条方への防御を意識したものだそうです。
伊勢国から岡部貞綱に招へいされて安倍川河口の持舟城に入った海賊衆、向井正重らと連携し一時は武田勢が駿河湾のこのあたりの制海権を掌握しました。
武田家滅亡後、徳川治世になった後も清水が港湾都市として発達することになったそのベースとなったことは言うまでもありません。
この神社の向かい側、巴川の東川は「甲州米置場跡」、その前の道路を隔てて「清水次郎長船宿 末廣」があります。
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小山昭治 (金曜日, 12 10月 2012 08:39)
昨日清水の問屋が来たので
「江尻城を知ってるか?」と聞いたところ
知っていました。
ところが「袋城を知ってるか?」と聞いたところ
「聞いたことがない」とのこと。
知識がないのか袋城が有名でないのか。
ブログを見せると、
小学校の門やお宮を見て「ここでよく遊んだ」と
懐かしがっていました。
でも袋城は知らない。そんなもんでしょうか。
今井 (金曜日, 12 10月 2012 09:35)
ありがとうございます。
袋城の場合、巴川河口の水運の城、そして平城であったことがその遺構を消し去って
しまい後世へも伝わって来なかったのがその理由ではないでしょうか。
また江尻城のさらに河口に近い場所に作られた船を囲う船着き場として付城的な城であったことも
今一つ清水の人々の記憶に残らなかった点なのかも知れません。
巴川は近世になって河川整備され袋城址付近は住宅が立ち並びます。小さな神社のみがその城址を伝えていますが、城の遺構を調査する術はもはや無く城址たる根拠をアピールする機会が無くなってしまった城でもあります。江尻城址の様に後世学校が建ってその史実が比較的伝わりやすくなったと思います。