茶頭 利休

織田信長が出る以前は「茶道」という考え方はまだ無く、茶の道とは栄西禅師、喫茶養生記の「茶の十徳」の意が判るような特別な方々のみが今でいう薬用効果的なものを期待したマイナーな「嗜好品」というイメージでした。

 

それを信長はそのような単なる趣味的、時に客をもてなすためのみの「茶の湯」を領国運営や対外交渉のアイテムとして大いに駆使し「茶道」としての文化をも開花させました。

「名物」と呼ばれる茶道具を中心にそれら価値基準を作り上げて異常なまでの茶道ブームを演出した人でもあります。

 

 「名物」の価値感の高騰は顕著で一つの国(領地)以上にもなっていました。滝川一益や松永久秀が有名ですね。

例えば鉄器・陶器の容器が「茶器」として流行りものの中で見立てられれば当時の最高位の価値を誇った「金」でさえ太刀打ちできぬ無限大ともいえる価値持つものと変身させることができました。

 

 この新しい価値意識の定着とブームは画期的なことです。

これまで人の心を動かし執着させた土地(領土)や金に加えて極端に言えば「土・粘土で作った物」が加わってまた前二者よりもより高価値な人工物を人々が取り合うくらいのそのブームに入れ込んだのです。

戦で手柄を立てた者の一番欲しい物は茶器であり、茶会への招待とその序列は、より名誉あることでした。

 

「茶湯御政道」はその根拠となった許可制茶道の基本条例みたいなものでしょうか。お茶することが許可制にされてその許可がご褒美だというのですから考えてみれば凄いシステムを作り上げましたね。

茶頭(さどう)とは茶会等を開催・差配できる職制で今井宗久、津田宗久、千宗易(利休)らを任じて信長はその配下に置き「茶道」を仕切らせました。

 

 徳川家康や関東の北条家などはその手の「武士の嗜み」にはノリが今一つだったようです。

画像は小田原石垣山の利休と秀吉の案内板。

「利休」という名のりは殆ど死ぬ間際の頃と云われていますので「宗易」が主たる呼名です。

「利休」とは「利心、休せよ」の意とのこと。

才におぼれること無く「老古錐―使いこなされて鋭利を失した錐―の境地となって進め」だそうです。